掲示板「大風呂敷」からの拾い物

過去ログ整理お手伝いをしていて、これは!!!と思わず手がとまってしまった記事をぺたぺたと貼り付けます。

順番ばらばらです。

【5951】
【タイトル】皆さんもやってみませんか?
【 日時 】02/10/15 2:22
【 発言者 】根石吉久
【 リンク 】http://8246.teacup.com/nessy/bbs 
  
 「回転読み」は一つの突破口です。
日本で英語をやるんだから、「磁場」はあてにできません。
わかったもの、楽に言えるようになったものを、その後、さらに数百回言い
続けることを「只管回転」と申しますが、この過程で、知識が無意識に沈み
ます。知識が感覚に変質します。あるいは脱皮します。
これがないと、言いたいことがあるときに英語が日本人の口に乗るというこ
とは起こりません。いつのまにかしゃべれるようになった人は、なんらかの
意味で、こういう繰り返しをくぐった人です。

私は常に原理を言いたい。
語学の原理です。

 

【5915】
【タイトル】パクパクさん
【 日時 】02/10/12 1:57
【 発言者 】根石吉久
【 リンク 】http://www82.tcup.com/8246/nessy.html 
  >サリバン先生がヘレンに言うコトバ:Imitate now,understand later.

 まさにこれが素読の原理です。
 素読には、コーチ側が意味を教えないという原則がありますが、生徒がイメージしたり、意味を考えたりすることを禁じることもありません。そこに「磁場」の問題があります。

 Imitate now,understand later. というのも、英語の磁場で言われています。これでいいのは、「磁場」があてにできるからです。
 漢文の読み下し文が、江戸時代の日常語から見てどれほどへんてこりんなものであっても、それは日本語です。語彙は八っつあん、熊さんから見たら、とうてい日本語に思えなくても、シンタックスが日本語です。私はシンタックスが日本語であれば、それは日本語だと思っています。
 シンタックスが日本語だから、コーチ側から解釈を与えないということが有効になります。生きて娑婆にもまれりゃ、そのうちわかるわさ、という原理が素読の原理だと思っています。おめえに、今わかれって言ったって、そりゃ無理だ。今は、とにかくすらすら読めるようにしておけ。これがまあ、私の下世話な解釈による素読です。
 これは、あくまでも日本語の「磁場」で日本語を素読するから有効になる。

 日本で英語をやる場合には、素読の伝統的なやり方を金科玉条みたいに守るわけにはいきません。「磁場」をあてにできないからです。意味を最初に与えたら素読とは言えないというのであれば、私は素読を捨てることにもためらいはありません。私は素読の原理を信じているだけです。それは要するに身体化であって、素読のハウツウ自体を信仰しているわけではありません。

 漢文の素読では、語彙が日常語ではありませんから、素読をする子供の意識で、音と意味が一緒にならないことはよく起こるのではないかと思っています。読み(音)だけが完成して、後から意味が備わることが起こる場合、音と意味は当初、肉離れを起こしており、別々のものです。
 ここが素読を語学に応用する場合のポイントです。音と意味の分離ということにおいて、漢文の素読と日本でやる語学としての英語は似ているのです。
 語学でも、音と意味は当初、ばらばらのものです。しかし、日本語のシンタックスで英語を語学とする場合、この音と意味の分離は、個人技で意識的に、あるいは強引に合体させないと、いつまでたっても一体化することはありません。素読のノウハウを遵守しているわけにはいかないのは、この一点においてです。

 微分してみたときに、音と意味の分離がみつかったとして、音を先に片づけるのが得策だというのは、私もそう考えてきました。私の「電話でレッスン」でも、音に意味を合体させるための話をする時期は、生徒さんの状態を見ながら行っています。
 まだ意味と音の同致のことを言うのは早いと思えば、意味のことは何も言わず、音の問題だけを言います。音に意識を奪われずに、ちゃんと音が出るようになれば、意味を容れるための容器ができたのだと考えて、意味と合体させる方法を言います。
 このあたりは、絶対にコーチについた方が有利なところです。初心者はコーチにつくのが有利だと思っています。10万円払って、10年分くらい得をするということはいくらでもあると思っています。日本語の磁場に置かれるかぎり、語学としての英語は一生ものですから、10年得をすることは実に大きいと思っておりますが、いまだ私の「電話でレッスン」は世の中にブレイクスルーするに至っておりません。

 「回転読み」は独学の方法ですから、Naima さんが言うように身体の動きが開示するものをあてにしています。こちらでは、音が安定してきたら、回転のさなかにどかどかと意味と合体させていっていいと思っています。そのためにこそ、「電圧装置」のような野暮な仕掛けも提示してあります。

 危険は多いですが、Naima さんに関するかぎり、安心して見ています。この方は、話のポイントがよくつかめる方ですし、なにしろ英検一級の方です。boysome さんの言われたような一般論は、すでに十分承知している方ですから。

http://www82.tcup.com/8246/nessy.html
 

 

 

 

 

ふりかえり

 投稿者:ハナ  投稿日:2010年 3月11日(木)11時07分16秒
編集済

 

  >2万行突破、おめでとうございます。
>ゆっくりガンガンいきましょう。

根石さん、ありがとうございます。

レッスンを再開して半年たちました。昨年9月に根石さんからレッスンをやめていた間はどのように練習をしてきたか聞かれましたが、まとめて答えることが難しく、そのままにしていました。すみません。ここで一度ふりかえりをしてみようと思います。

私が根石さんのレッスンを初めて受けたのは2006年6月でした。私は英語を話せることに憧れは持っていましたが、文法理解が全然できないまま学生生活を終えてしまい、わからないままの状態でした。

初めてのレッスンでは口の周りがとても痛くなったしできないことだらけでしたが、沢山声を出したからなのか、「やった」「がんばった」というような実感が持てて、気分は良かったような覚えがあります。私には幸い手本の音を出してくれる夫がいたので、復習をしやすい環境でした。それはとても恵まれていたことだと今でも思います。今までは英語学習と言えば、文章を読んで単語の意味を調べ、内容を理解することだと思っていましたが、これは私にはハードルが高すぎで、中1の教科書の文章でさえも理解できた!という実感を持つことはできませんでした。大人になってからも何度か英語学習を試みましたが、いつもよくわからず続けられなくなり、続けられない自分に落ち込むという悪循環がありました。音読ができるようになるということがその先にどういう効果をもたらすのかよくわかりませんでしたが、その部分だけであれば、日々の練習で必ず成果が出せるというところが嬉しかったです。手本の音を聴くだけでは私にはその音を再現することはできませんが、レッスンでは具体的な口の動かし方、舌の位置を教えてもらえるので、その通りにやるとそれなりの音が出ることにも感動しました。自分の口から憧れの英語っぽい音が出ることは私にはとても嬉しいことでした。

しかし、最初の感動を保つことは難しく、日々の練習をさぼることが増えてきました。根石さんのレッスンは1年半続けたところで一度やめました。この時は自分では音を作ることができませんでしたが、私はそのことについては「しゃべれないのだから音を作れないのは当たり前」だとしか思っていませんでした。

レッスンをやめた頃、最初はゴーストのCDを頼りにレッスンと同じ形式で練習をしましたが、CDの音は聞き取りにくく、また私には速すぎたこと、口語は理解することが難しかったことなどでゴーストはやめました。そこで中1、中2の教科書からの抜粋からできているCD付きのテキスト(英会話・ぜったい・音読・入門編)を使って音読練習を続けるようにしました。
レッスンをやめてから半年以上たった頃だったと思いますが、自分なりに上手にCDの手本の音を真似ることができていると自信を持って夫に聞いてもらったことがあります。夫の感想は「何を言っているのかわからない」でした。

とても落ち込みましたが、この時に聞き手に内容を伝えるためには、音(言葉)を発するのと同時にその音(言葉)で自分は相手に何を伝えたいのかというイメージを持つこと、相手に伝えるという気持ちを持つことが必要なんだと気がつきました。

英語の語順のままイメージを展開させる練習に役立ったのは根石さんからすすめられていた、「書きながら思う」(でしたっけ?)という作業でした。(なんとなく英語理解に効果があるような気がしてはいましたが、この時まで強く目的意識をもって取りかかることはありませんでした。)私が使ったテキストにはそのやり方の一つに「見ながら書かない」というのがありました。たとえばSam walks into the room. という文章なら(スラスラ読めるようにしたあとで)Samのイメージを持ってから、Sam と書く。walks のイメージを持ってから書く。
最終的には文章の一連の動きをつなげてイメージして、そのイメージを動かしながら言葉をあててピリオドまで書けるようにする(文章を暗記して書くのとは違います)。そういうことをやりました。ゴーストのシナリオだとセリフよりはト書の方が具体的なイメージが持ちやすくやりやすかったです。

書く時にぶつぶつ唱えながらやりますが、塊でイメージを捉えられるようになってくると、このぶつぶつ唱える声がそのまま意味の通じる音になっていました。ピリオドまで連続したイメージを持って書けるようになる頃には、ほぼ自分で音の決定ができるようになっていました。

中1、中2の教科書の抜粋で良かった点は5,6語文程度の文章を沢山読みこむことができたことです。ゴーストのセリフの長文は短い文章がつながっているだけのものが多いので、取り掛かりやすくなりました。この頃になってやっと文法の説明が少しは頭に入るようになりました。(弱点は完了形がほとんど使われていないこと。)

それから自分でイメージをしながら音読できるスピードを速める練習もしました。これは聞き取りのためです。この効果はまだあまり実感できませんが、話し言葉を聞いて理解するには相当のスピードでイメージがついていかねばならず、それには自分自身が沢山の文章をイメージと音と重ねならが速くに音読ができるようにすることが役立つような気がしています。
(音にするときにはアの音の違いと、第一アクセント、第二アクセントについて気をつけています。)

やる気がない時、時間がない時などは、すでに読めるようになった文章の音読を5分程度はやるようにしてきました。こういう日が何日も続くこともありますが、わずか5分でもとにかく続けるということが良かったと思います

 

 【5522】
【タイトル】語学用ディベート論(2)
【 日時 】02/09/20 18:16
【 発言者 】根石吉久
【 リンク 】http://www82.tcup.com/8246/nessy.html
 
 

 語学はもともと変態的な行為なのだ。現実とは切れて、現実とうらはらのことを言い続けたり、書き続けたりする。この変態行為は机上だけでたくさんだという感覚がどうしてもある。人を相手に変態行為をやらかすことが、ESS なんかでやるディベートやフリートーキングなのだ。確かに、語学の力やスキルの発達にこれが有効なのかもしれないが、いくら有効でもやりたくないと思うのは、人は人と普通につきあえばいいので、複数の人間が集まって変態ごっこをやる必要はないという考えがどうしても俺から抜けないからだ。言葉の生態として変態なのだから、言葉にまともな感性を持つ者なら、そんなものに耐えられるはずがないと思うのだ。

 大したスキルも持たないが、言葉の生態には俺はどこまでもこだわる。

 あんな変態をやるくらいなら、スキルなんか発達しないままでいいやと思い決めているのである。
 どんなにごつごつしようが不自由しようが、俺は実際に必要が生じたら、ごつごつと不器用にその場で苦しみながら英語を使おうと決めているのだ。俺は日本人の不自由なごつごつした英語をこそ愛している。
 机上ではなめらかに口を回す練習をする。「回転読み」などの変態行為もどんどん行う。机上でなら、思う存分、気の済むまで変態がやれる。机上の言い回しのなめらかさと、生活言語のごつごつさの落差がどんなに大きくてもかまわない。この落差の大きさを自覚し、何度でも語学の机上に戻ること、何度でも生活の場で、そのたびにごつごつや不自由を引き受けていくこと。俺はそこに日本の英語のアイデンティティを見ている者なのだ。
 そうやすやすとなめらかになってやるものか、不自由を手放してたまるものかとすら思っている。それは俺が日本語の磁場を生きていることの証なのだ。

 日本語でしか言えないことが絶対にある。
 英語でしか言えないことが絶対にある。

 英語のスキルを絶対価値としてしまった者の中心課題は、英語の思考法で考えるということであるはずである。しかしそれが絶対価値であるならば、アメリカに行って、とことん日本語をスポイルすればいいだけのことだ。日本にいる理由がない。日本にいて英語をやることの意味は、日本語の思考法と英語の思考法が引き起こす摩擦そのものを生きることであるはずなのだ。だからこそ、ごつごつした英語、不器用な英語になる。
 ごつごつしても不器用でも、言いたいことは言う英語。これこそが価値なのだとは誰も思っていない。よりなめらかな、より英語の思考法に近い、より不自由を感じない英語が価値だと思っている亡者たちならいくらでもいる。

http://www82.tcup.com/8246/nessy.html

Jackie さん

 投稿者:根石吉久  投稿日:2009年12月 5日(土)03時25分16秒

 

   なんで英語なんぞやっているのか、詳しく書いてる暇はないので手短に書く。

1. 仕事だから。
2. 自分の日本語にはねかえるものがあるから。
3. ふぬけみたいな日本語を書かないために。
4. 英語でも本を読みたいから。
5. 英語を笠に着てでかいつらをする奴らにでかい口をきかせないために。

 

 

 【5291】
【タイトル】sb さん
【 日時 】02/09/12 1:43
【 発言者 】根石吉久
【 リンク 】http://www82.tcup.com/8246/nessy.html
 
 

>一度音として発したことばの音の高さやスピードは、あとから修正するのが難しく
 なってきます。

 アナウンサーは日本語の磁場にいて、日本語で書かれたものをちらちら見ながらアナウンスをやるのですが、この条件下においては最初に黙読というのはなるほどと思うところがあります。
 語学では、音づくりのできるコーチさえいれば、最初から音読でいくべきだと思っています。コーチがいない場合では、何らかの方法で、発音のコツの説明を読むことが必要です。
 日本語の音で口の動きが形成された後に英語をやる場合は、こちら岸の音からむこう岸の音へ橋を歩いて渡るようなものだと考えています。橋のこちら岸に近いところもあれば、橋の真ん中もあれば、橋の向こう岸に近いところもある。こちら岸にいて、日本語を使っている時間は語学ではないし、向こう岸に渡り終わって英語を通用させている時間も語学ではない。語学は橋の上にあると思っています。
 一度音として発した言葉の音の高さやスピードは、あとから修正するのが難しいなどとはまるで思いません。アナウンスの練習でだって難しいとは思わないのですが、語学では修正に次ぐ修正が橋を渡るという行為そのものです。修正に次ぐ修正がなければ、こちら岸の音(日本語の音)から、むこう岸の音(英語の音)に近づくことが成立しません。

 私はまた、この語学という行為を載せている橋というものを考えると、初心者が練習すべきものは、英語の音と日本語の音の中間音だとも思っています。
 ネイティヴ発音の複製音を聞かせて真似して言ってみろと言っても、ネイティヴが repeat after me と言っても、それで、日本人の初心者が真似や repeating ができるわけではない。しかし、学校を含めたほとんどの英語の機関がそれしかやれていない現状です。

 中間音には、こちら岸に近い音もあれば向こう岸に近い音もある。しかし、もっとも中間音らしい中間音は、理論的には橋の真ん中あたりの音になる。この音を、日本語くさい音だとか和臭だとか言って、馬鹿にしたり劣ったもののように扱う者どもを私はいつでも蹴飛ばす用意があります。
 この音は日本人が日本に住んで英語をやる場合には必要不可欠な音だと考えているのです。ここを通ることが必要であり、中間音をちゃんと作れれば、橋のむこう岸に近い場所では、ネイティヴ音の複製音の媒介が有効になります。
 音に関してのコーチの仕事とは橋の真ん中か、向こう岸に近いあたりまで生徒を連れていくことです。橋の真ん中以前(こちら岸寄り)では、絶対にコーチがいた方が有利です。

 この中間音を作ることを無視して、英語をやり始めたばかりの人にネイティヴ音や、その複製を聞かせ真似ろというのは、こちら岸からむこう岸に飛び越せと言っているのと同じです。小川ならともかく、英語と日本語の音の間には橋が必要な距離がある。橋が必要な場所で、飛び越せと言っているのですから、飛び越そうとした人の多くが溺れ死ぬ。(使えない音のままになる)。

 語学をやり始めた人に必要なのは、ネイティヴ音を媒介にしうる中間音であることを指摘したものを読んだことがありません。私が知らないだけかもしれませんが・・・。

 話が逸れておりますが、語学では、音と意味を同致させ、さらにそれを声にする必要がありますが、アナウンスの練習では、音と意味の同致はことさらに練習する必要がないと思います。引用されたものは、声と意味の同致に関するもので、あくまでもこちら岸においての話です。その場合には、意味を先に確定し、それに声を合わせるという練習は有効だと思います。こういう練習は、外国語の語学とは相似形にならないだろうと考えました。

http://www82.tcup.com/8246/nessy.html

【5149】
【タイトル】Eliot さん
【 日時 】02/08/29 20:11
【 発言者 】根石吉久
【 リンク 】http://www82.tcup.com/8246/nessy.html
 
 

 知識を動きの中に置いて働かせ、動きと一体化した理解に変えるということは、私が素読という方法を元に置いてあるところから出てきていると思っています。

 素読は、ひとまず知識や理解を棚にあげておいて、音声的にテキストをすらすら読めるようにすることを重要視します。この場合、コーチがいることが普通です。
 素読(音読)を通してテキストを身体化した後では、(理想的には)テキストはいつでも暗唱できる、つまりいつでも動きとして駆動できる状態で自分の中に保存されます。

 こうして身体化されたテキストは、生活過程の中で発酵を続けるというのが私の理解です。素読で扱う漢文というものは、文字は中国語でも、シンタックスは日本語ですから、ときどき暗唱して、すらすら読める(言える)状態をリフレッシュさせていれば、徐々に意味を備えてきます。磁場と交わる個人の言語の成長によって、(意味の発酵過程を通して)、身体化されたテキストに意味が充電される。さらに、生活の中でいろいろな問題に直面してものを考えさせられる時、テキストが新たな表情を浮かべることがある。徐々にあるいは表面的に備わった意味が、一挙に深さを獲得するような瞬間がある。この深さは、生活の方から、あるいは生活の中での思考から、テキストに充電されるとほぼ同時に、テキスト自体が開示しているような感覚を伴います。

 テキストの(意味の)発酵過程までも含めて、素読の全体と呼ぶならば、これは英語の磁場において英語を素読すれば必ず効果があるはずだという現在の私の見通しにつながってきます。(私はこれを試してみたいが、生徒がいません。)

 素読というのは、漢文の読み方という一種変わった「日本語」に適応されていたものですから、ことさら意味というものが備わる過程を問題にしなかったのだと思います。英語という外国語の学習に適応するには、意味の充電過程を意識的に導入する必要があります。ここが伝統的な素読と私の方法が違うところです。

 いつ、音と意味を同致させるかは、厳密でなくていいと考えています。比較的初期にそれが同致するのがいいが、國弘さんにせよ、私にせよ、音と意味が同致した後が大事だと言っているので、そこが最重要なポイントだと思っています。
 意味がわかっているもの、理解しているものをさらにどんどん音読せよ、という点では私は國弘さんとまったく同じ意見です。この回数は多いほどいい。

 音のセンスが特にいい人を除くと、只管朗読といった場合に、間違った音や通じない音で只管朗読をやってしまうおそれがある。自分ではいいと思っていても、通じない音で只管朗読をやってしまう人の数は決して少ないものではないだろうというのが私の推測です。この一点が、國弘さんの只管朗読の数少ない弱点の一つだという批判が私にはあります。

 これは、つまり英語学習の初期には「音づくり」のコーチが必要であるということを意味しています。
 語学では当初、音と意味が分離しているのが普通ですから、音は音として独立して扱うことができますし、そう扱うべきだという考えです。これは、Eliot さんの「音作り」でもそうだと推測しています。私も、まったくの初期から一貫して文全体を扱うというところが、Eliot さんと違うだけで、ひとまず意味を棚にあげ、(イントネーションやリズムまで含めた)「音」自体を練習させるという点では一致しています。これは、「原理的には」素読と同じなのです。
 國弘さんの、「意味が分かった上での只管朗読」には、それを成立させるための前提というものが本当は必要なはずです。只管朗読以前、というものがある。それが、「音づくり」の過程だ、と考えているわけです。

 「回転読み」 → 「理解」 → 「回転読み」

 この場合の、最初の「回転読み」は「音づくり」のためのものです。「理解」以後の「回転読み」は、理解を伴う音読という点で、國弘さんの「只管朗読」と同じです。

 英語のスキルという点では、私はまったく國弘さんの足元にも及ばない者ですが、語学論というフィールドに立ってものを言うなら、國弘さんの「只管朗読」は、それが成立するための前提がくらがりになっているという指摘はできると思っています。

http://www82.tcup.com/8246/nessy.html
 

【5200】
【タイトル】皆様
【 日時 】02/09/04 1:05
【 発言者 】根石吉久
【 リンク 】http://www82.tcup.com/8246/nessy.html
 
 

 Eliot さんが書かれた以下のポイントは貴重です。

----------------------------------------------------
以下、日本人英語学習者のための指針です。
①/a:/ /o:/ /ou/の三つを区別する必要があるので、/a:/を口を一杯に
 開いて発音し、/ou/は唇をしっかりと丸めて「オ」を発音した後に弱い
 「ウ」にスムーズに移るようにする。/o:/は/a:/と/ou/の中間の音
 として、唇を少し丸めて「ゆで卵くわえ」の要領で発音すればよい。
 決して /o:/ を「オウ」のように言わないようにすること。

②/o:r/の/r/を発音する習慣のない人は、/o:r/は①の要領で/o:/と
 発音すればよい。あくまで/ou/との区別をつけるようにすること。
 一方、/o:r/の /r/を発音する習慣のある人は/o:r/の出発点の音は
 日本語のオに聞こえる音でありさえすれば問題ない。

③/a:r/の/r/を抜かしても一向にかまわない。/r/の発音に気を取られて、
 /a:/の音が妙になったら通じないので、/a:/をしっかり発音すること。
----------------------------------------------------

 質問がありましたら、根石にしてみていただけたらありがたく思います。
 私が説明してみて、いや、違うぞ、という場合は、Eliot さんからチェックが入りますから、質問する人も質問される人(俺)も比較的気楽です。
 このあたりが実に掲示板というもののいいところです。
 初心の方に私が説明することで、私が勉強できるので、私が嫌でなかったら私に説明させてください。説明させろよ、このやろ、とは申しません。
 直接に Eliot さんから説明してもらう方がいいもん、という方は、勝手にしてみて。

http://www82.tcup.com/8246/nessy.html



2534 パクパクさん 投稿者:根石吉久  投稿日: 4月16日(火)23時46分45秒

>わたしは、あこがれだけの在日英語学習者は、どんなに学習しても
 英語が通じるようになるとはおもえません。
 あこがれを廃し、語学として(英語磁場でなく、日本語磁場での
 外国語学習の明確な自覚をともなう学習行為)、ただ只管、素読するなら
 別でしょう。

 まさにこれが私が言い続けてきたことです。
 「あこがれ」で始めてもかまわないけれど、語学そのものの面白さ、言葉そのものの面白さに目覚めなかったら、ちんちくりんのままで終わりです。

>ここで、国弘さんは、音読という表現ですが、私は、素読の表現の方がいいとおもいます。素読の、素の語感を残した方がいいとおもいます。

 國弘さんは、「朗読」と言っています。私は「素読」と言ってきました。
 落としどころは「音読」です。朗読だろうが、素読だろうが、音読には変わりがない。

 私も「素読」の方が好きです。「素」は「素うどん」の「素」でもありますが、「素人」の「素」でもあります。
 國弘さんはもう明らかに「玄人」です。私は人様からお金をいただいているくせに、自分のことを「素人」なんだと思うことがあります。
 國弘さんが、在米経験を経て「同時通訳」の能力を得たことは間違いないと思っています。いくら「只管朗読」を激しくやっても、日本在住のままでは「同時通訳」はできるようにならないと思います。
 この方がまったくの「玄人」でありながら、「素人」以前の初心者のための方法を密教として提示されたことの意味は非常に大きい。こういう玄人が言うのでなければ、初心者は信じないのです。そして、さすがに「玄人」だけあって、余計なことは言わず、自分の方法を密教としています。そして、密教的にでなければ言えないことは言い切っています。

 私は、この密教を顕教としようとしています。この一点で私は國弘正雄と違います。

 それで私は、やたら理屈を言うやつだとして嫌われています。
 損な役回りは私の身上です。

 少なくとも、私の元で英語をやる人は、英語フリークでなくても英語ができるようになります。國弘さんの回りに集まったのは、英語フリークがほとんどだったと思いますが、英語フリークたちのためだけの英語を覆すには、密教が顕教にならなければならない。英語が英語フリークの専有物であってたまるか。それが、日本の英語の惨めさがいつまでたっても覆らないところなのです。國弘正雄に対する私の批判があるとすれば、この人が日本の英語教育を根底から批判しなかったことです。
 私が「シンタックスの内在化」、「音づくり」などと、英語密教系の人々の使わない語を作り出さなければならなかったのは、英語フリークどもでは日本の英語がどうにもなりはしないという絶望があったためです。

2505 斎藤さん 投稿者:根石吉久  投稿日: 4月15日(月)01時39分40秒

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実用を「めざす」という考えが何故貧しいのかよくわかりません
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 私は口が酸っぱくなるほどに、「使える英語」ということを言い続けてきました。
 しゃべれる英語でなくてもいい。読める英語でもいい。しかし、読めると言われている日本人の英語は、頭から読み下すのではなく、昔の漢文式に視線をあちこちさせて、パズルをいじるように英語をいじってきました。
 これでは駄目だ、と言い続けてきたと思っています。
 「使える英語」というものは、英語のシンタックスが内在化されている英語のことです。

 一方、「実用英語」と言われているものは、早い話が産業界から要請されている英語の質のことです。日本が世界を相手に、ショーバイを続けていくのに役に立つ英語のことです。言葉そのものの魅力とか、異質言語や異質シンタックスの魅力とは関係のないことです。この「実用英語」の眼目は、なにはともあれ、ショーバイで得ができる英語のことであり、これが現在の日本に必要だということはわかっているつもりですが、英語に注ぐ労力の焦点をここに合わせてしまったら、貧乏くせえ話だと思うのです。

 語学の原動力は、言葉そのものの魅力だという考えは一歩も譲る予定がありません。 2617 ジェーンさん   投稿者:斎藤伸夫  投稿日: 4月21日(日)17時40分31秒

 

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>>「ロックミュージシャンの一部には、日本語を英語風のアクセントで歌っているのがいるじゃないですか』

というのだけでは私も根拠が希薄のように思います。
もう少し、その理由を具体的に教えて頂けたらなあって思います。
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以下は、私がTon氏に書いたことです。
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なぜ、日本語を英語風のアクセントで歌うのでしょうか?
それは、そういうことをカッコイイと思う人が多いということでしょう。
つまり、彼らは、日本人でありながら日本語が英語よりダサイと思っているのです。
これは、日本とアメリカの関係が好悪のみというような、スッキリした関係でないことの
証拠です。
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日本語と英語は、まったく異なります。その日本語を英語風に発音する。
それをカッコイイと思う。この事実からは、日本語に対する誇りは、少しも感じられません。
これを、異常と思わないのは、どういうことなんでしょう?

2123 浜谷さん 投稿者:根石吉久  投稿日: 3月12日(火)02時03分25秒

 少し前にメールでお聞きした意見ですが、

>まがいまがい =使えない英語 + 身体化していない英語 → 喋れない → 普通の学校(含む普通の英会話学校)で学んだケース

 「使えない英語+身体化していない英語」という場合のプラス(+)の意味がわからないのです。プラス(+)ではなくて、「使えない英語=身体化していない英語」ではないかと思っています。

 「まがい」は「使えない」と等値ではないと思いますし、同様に「もどき」は「使える」と等値ではないと思います。

 「まがいまがい」「まがいもどき」「もどきまがい」「もどきもどき」は、まだこれを言うのは早すぎるかもしれないとも思っています。

 ひとまずは、「まがい」と「もどき」があり、日本の英語としては、「それしかない」と言うことが眼目です。

 英語を真剣にやろうとしている人に冷や水を浴びせるような言い方ですが、しかし、この冷や水は「年寄りの冷や水」ほどには体には毒にならないと思います。
 日本語で育ち、日本語の中で作った英語。今も日本語に囲まれている英語。
 絶海の孤島のようなものです。
 これは、必ず「もどき」になる。
 この本質規定があまりにもタブー視されてきました。
 このタブーがあるので、余計な劣等感や余計な優越感が甘やかされてきました。


2124 混乱 投稿者:根石吉久  投稿日: 3月12日(火)02時06分42秒

「まがい=使えない」
「もどき=使える」

 これは私が言い出したのでした。
 しかし、「身体化」の概念と足し算はできないと思います。

「まがい=使えない=身体化されていない」
「もどき=使える=身体化されている」

 こうするとすっきりすると思います。

 

2126 はあはあ。 投稿者:根石吉久  投稿日: 3月12日(火)02時52分36秒

 語学はさ、全然民主主義的にやっても駄目。強制が必要な世界。強制されて、生き残る
語学は一丁前の語学になる。強制されて、強制はいやだ、民主主義に反してるなんて言う
やつの語学は死ねばいい。強制はいやだ、私が勝手に激しくやるっていうんなら、生き残
るし、いい語学が育つが、「私が勝手に激しくやる」ってことが、もう、アメリカの真似
の民主主義を食い破ってる。そういうもんだと思うんだわ、語学って。
 あんたは、仕事が忙しいって条件の元で英語が死なないようにするために、俺のレッス
ンを使うのがいいとは思うが、しょせん「勝手に激しくやる」って世界だ。それをやれる
人にはいいレッスンができるし、そうじゃねえと、強制をやるぜ。たいがい、それをやる
と、民主主義育ちのボケどもはレッスン自体をやめちゃうけどね。

2283 sbさん 投稿者:村田  投稿日: 3月25日(月)12時05分53秒

 

忘れられない言葉。
「どんでん返し」のベース「けんか英語入門 英語のやっつけ方」から。
「大丈夫だ、心は死にはしない」

私が素読舎へ行って半年くらい経った頃の言葉。
「いいか、俺たちは職人なんだ」
2109 英語音「10?のポイント」考 投稿者:浜谷(はまや)  投稿日: 3月11日(月)19時42分30秒

 

根石先生、

>[tall s] の方がわかりやすいかもしれません。

[縦長 s]でどうでしょうか? まあ将来印刷される場合はいずれにせよ必要のない呼称ですが・・・。 それから「s と同じ。唇を丸めて突き出す。」という説明のなかの「唇を丸めて突き出す」というのがまだ分からないのですが・・・。これは後に来る母音が「u」の場合に言えますが、それ以外の母音が来る場合には言えないと思います。例えばsheの場合などです。また、このポイントと類似した音で[t+縦長s]があります。[f, v] ポイントと同様のケースだと思います。このポイントに併せ加えて説明すればわかり易いのではないでしょうか? 例えば、「それぞれ日本語の「し」「ち」と同じ口の形から次に来る母音につながる音になる。」というようにです。

>黙音: want to などで、 want の t 音が黙る(舌の位置は確保される)
連結: would you などで、 ウジュ のように繋がる
母音削除: これが結構時間がかかります。要するにカタカナ発音でなく、子音を
      子音単独で出すようにすることです。

このポイントは3つとも非常に大事ですから3つに分割すればいいと思います。すなわち「10のポイント」→ 「12のポイント」にした方がいいのではないでしょうか?「母音削除」の説明は「子音を子音単独で出すようにすること。例えば「sitの場合[s]をまず単独で発音し、その後の[it]につなげる。」のようにすればどうでしょうか?


http://www1.odn.ne.jp/~cet09590/

 

2128 at leastが聞こえるか? 投稿者:パクパク  投稿日: 3月12日(火)07時12分07秒

 

ゴースト冒頭部
Molly:There's gotta be at least seven or eight feet up there.
            ** *****
アトリーストとはまったく聞こえません。
そもそも言っているのかどうかも定かではありません。
学校英語では、at leastをクリア音声で習います。
したがって、生活音で、かすかな音(時間もエネルギーもない無音)に
なると聞き取れません。
映画英語を商売にすると、まさに英語の本質と対決することになります。
客も、聞こえない音より、聞こえる教科書英語音を心の底で期待しています。
英語の本質とは、あきらかに日本語より、物理的に高速な音です。
ロックと盆踊りのリズムの違いがあります。
教科書英語音とは、ロックの英語を、日本人用に盆踊り用にスローダウンした
ものとおもわれます。
学校では、スローダウンサウンドに慣らされるので、映画の生活音を
言語音として、無意識に聞き取りません。
生活音も、言語音として、認識するように、脳をセットします。
無を聞く。まさに、般若心経です。
無の知覚。
そうすると、聞こえる。
これが、生活音法です。
2201 聴解不可能領域の設定 投稿者:パクパク  投稿日: 3月20日(水)09時03分03秒

 

ゴースト前半部、天使像を部屋に持ち込むシーン
スクリプト
   Grab the bottom. I got it.
   **** *** ******  * *** **

 *は、聞き取れない部分。
 つまり、この会話部分は全滅です。
 こういうことが、映画の独学で必ず遭遇するとおもいます。
 単語は簡単。語数も少数。でも、まったく聞き取れない。

 この場合、以前でしたら、100%聞き取りを目指していたのですが
 聴解不可能領域という概念を設定し、聞き取りを放棄する戦略を
 とります。
 問題は、初心者は、どの部分が聴解不可能領域かわからないことです。
 ここにコーチの存在が必要です。
 「それは、解かなくいいよ」と言ってくれる人です。
 残念ながら、日本の映画をつかった学習教材には、この手の
 解説はまずありません。
2205 SAIさん from Hamaya's 投稿者:根石吉久  投稿日: 3月21日(木)02時34分13秒

 

お返事ありがとうございます。明日お返事を書こうかと思って布団に入ったのですが、考え始めてしまったので、今日書くことにします。

>例えば、親がアメリカ人と日本人であって、アメリカで生まれ育った者でもバイリンガルになるケースがあることです。このケースから考えると、「磁場」はバイリンガルになるための必須の要素であるとは限らないと思われます(この議論ではカルチャーの部分を除きます。その国のカルチャーはその国に住んでみないと分からないからです)。

 よく流通している「英語圏」という語ではなく、私が「磁場」という語を持ち出しているのは、国という単位に依存せず、あくまでもある一つの言語の磁力が及んでいる場というものを考えているからです。親がアメリカ人と日本人である場合に、家庭の中で日本語が使われるなら、子供は二つの別の「磁場」を往復します。友だちや父親とは英語で話し、母親とは日本語で話すということをしているなら、二つの「磁場」を往復していることになります。
 以前、これを考えて、「大きな磁場」と「小さな磁場」ということをどこかに書いたような記憶があります。「大きな磁場」は、社会的な広がりに流通する言語が形成するもので、個人をとりまいている外的な言語状況です。これは英語圏なら英語圏という「圏」という概念とほぼ重なります。
 「小さな磁場」は、自分と相手の二人だけでも「磁場」になります。自分と親、自分と恋人、自分と友だちのように自分を数に数えて二人しかいない場合でも、「小さな磁場」は形成されます。
 「磁場」とそうでないものとは、直接性、切実性、親密性の度合いが決めると思っています。親と子供の関係ほど、言葉を獲得しつつある子供にとって、直接で切実で親密なものはないので、これほど強力な磁場は他にないというほどのものです。
 磁力の強さは、「大きな磁場」「小さな磁場」という場合の、磁場の大小には左右されません。磁力の強さは、直接性、切実性、親密性の大小で決まると考えているので、磁場の大小とは反比例する関係にあるとさえ言えると思っています。

 この意味で、音声複製技術によるあらゆる語学教材は、磁場を形成しないのです。映画を語学教材にすることを例にとれば、どれほど手に汗握る映画であろうと、それは観客として手に汗を握っているにすぎないので、直接に自分の身が危険にさらされているのではない。想像的にどれほど切実で、リアリティがあっても、リアルではない。

 「小さな磁場」とは、自分が直接性、切実性、親密性の当事者となる場のことです。この直接性、切実性、親密性を通じて、カルチャーは感覚や無意識にしみわたりますから、「磁場」とは同時にカルチャーをもろに浴びる場でもあります。沢庵和尚にちなんで言えば、おふくろが漬けるタクアンの味も、ご飯を食べながら、「おいしいね」って言うのも、「うん」とうなずくのもみんなカルチャーです。

 バイリンガルとは、二つの言語に直接性、切実性、親密性を持ちうる人です。これは、原理的に「磁場」なしでは成立しません。成立すると思うのは、言葉には根というものがあることが見えていないのだと思います。
 直接性、切実性、親密性が「磁場」そのものを作り、その「磁場」がまた直接性、切実性、親密性をはぐくんでいます。そこが、言葉が根を張っている場所です。

 語学をやるからには努力を惜しもうとは思わないにせよ、私の英語が私の日本語と同じレベルになる日が来るなどということは、私はまるで信じることができません。ありえないことだと思っています。私の日本語は、まがいものや複製物ではないところに根を張っていると思っているからです。

 バイリンガルの本質は、「磁場」を切り離しては考えられません。
2217 浜谷さん 投稿者:根石吉久  投稿日: 3月22日(金)12時02分47秒

 


よく分かりました。「なまもの」でない英語を国弘先生が仰るように只管朗読したり、根石さんが仰るように回転読みをして、「生き返らせる」、と言うよりも日本人の英語(ネイティブやバイリンガルのではない)に甦らせる作業が語学だということですね? 根石さんの文章をお読みしていてふと思ったのはその甦らせる作業つまり根石さんが仰っている「殺しなおす」という作業の根幹になっているのは「生ものでない英語」をイメージ化することだと思いました。そしてそのイメージが昇華してふつふつと湧き出してきたものがあたかも「なまもの」かのようになって学習者の耳、口に甦って来て、 日本人の英語(「もどき」英語)となる、そうでしょうか?

 どんぴしゃりと正解していただけてうれしいです。
 「殺し直す」ことによって、「甦らせる」ときに、「通じる音」を作るなら、ここに日本人の英語というものの根拠地ができると考えているのです。ここから、多読へも、映画の聴きとりへも、シャドウイングへも出撃できます。
 多くの日本人は、この根拠地を持たないまま英語をやっています。
 「殺し直す」ことの根幹は、「音づくり」とイメージ化だと思います。この作業の途中で、ネイティヴ吹き込みによる複製音声を媒介にすれば、徐々にイントネーションの自己決定ができるようになります。イントネーションとイメージの融合。これが自分の口の動きとして実現しているもの、これが「もどき」です。
 (この過程全体の中で、私の「電話でレッスン」は、「通じる音」と「イントネーションの自己決定」が独り立ちするまでの面倒を見るものです。また、これに使われる「技法グラウンド」と、「復習範囲テスト」のやり方自体を学んでいただくためにも使っていただいています。後者は、塾の先生をやっているとか、社内教育などで小さな英語のクラスを持っている方などに向いています。)


私はこの作業に欠かせないのが前段階としての鵜田氏の30音なり、根石さんが最近構築された10のポイントなどによる英語音の獲得、及び基礎工事としての多読であると考えます。多読による基礎構文身体化の補強なくしては只管朗読も回転読みも十分にその役目を果たせないと思うからです。

 鵜田さんの30音や、私の「10のポイント」などは、「通じる音」を作るために必要なものです。
 多読は、ある程度の「もどき」ができてきた時点で、すなわち、「通じる音」と「イントネーションの自己決定力」がある程度できた時点で採用すべきものだと考えています。
 「音づくり」のコーチの必要をすっとばしてしまえば、いくら易しいものから多読しても、それだけで英語の力が作れるということはないでしょう。また、疑似磁場頼みの「英会話学校」方式も、「音づくり」のコーチの必要をすっとばしている場合がほとんどです。

 多読の前の基礎工事。この順序が非常に大切だと思っています。
 日本の英語教育が欠いているものは、基礎工事です。
 SSS 方式も、基礎工事を欠いていると思っています。

http://www.asahi-net.or.jp/~ax9y-nis

2233 パクパクさん 投稿者:根石吉久  投稿日: 3月23日(土)14時43分38秒

 

 多読派の人たちは、多読が有効になるために何が基礎になっているのかということに無意識な場合が多いです。
 もちろん多読自体は大いに有効なのですが、それが有効になるための基礎項目に何と何があるかを確定しないと駄目だと思います。

>そしてもう一つは、ネィティブは、音の基礎工事が
 できないのではないかとおもいます。

 まったくその通りです。ネイティヴというのは、自分でネイティヴ音が出せるだけの人であり、音の基礎工事がやれる人ではありません。これが、あまたある外人を売りにしている英会話学校が暗闇にしている部分です。英会話学校に無駄金をふんだくられている人たちも暗闇を暗闇だと思っていないので、馬鹿な幻想ごっこが続いています。

 このことは、実は日本の学校にも当てはまることです。せっかく金を使って外人を学校に置いてあるのに、生徒の「音づくり」にはまるで役にたっていない現状があります。文部科学省や教育委員会や学校の責任者たちは、外人を置くことで、音の問題は解決したかのようによそおうごまかしが通用するとでも思っているのでしょうか。

 また、日本人の英語の先生で、「通じる音」を持っている人は数としては少なくないと思いますが、自分の発音がよくても、生徒の口の動きとして「通じる音」を実現できないならば意味はない。先生の発音というものは、飾り物ではないはずです。
 また、「音づくり」をやる能力がある先生がいても、それを阻んでいるのが、中間・期末という名前のテストの敷き詰めです。「音づくり」をやる余地がないのです。背後にそびえているのは、やはり入試制度です。

 中高一貫の私立、中学入試を経た非常に優秀な生徒たちというような好条件はあるにせよ、この中間・期末のテストの敷き詰めのなかへ敢然と「音づくり」をうち立て、成功させたのが Eliot さんです。この画期的な授業の存在はまだ注目されていません。公立学校にそのまま持ち込めないものであることも問題の一つです。しかし、これはもっともっと注目されてしかるべき授業です。

http://www.asahi-net.or.jp/~ax9y-nis/ooburosi/series/otomichi.htm

 英会話学校のネイティヴも、公立学校の英語の教師も「音づくり」ができないことの元に、日本には日本人のための「音法」がなかったという一事があると思っています。英語音に関する知識自体はあっても、それをどう授業に使うかという意味での「音法」が存在しない。このことと、中間・期末テストが音を食い殺すことに声をあげようとしない英語教師の保身がからんだ蛇体が日本の学校英語です。

 私の「10のポイント」は、最低の「音法」を提示するためのものです。
 これだけでも、本当に身体化されるなら日本人の英語はまるで変わると思っています。

 要するに、現状では、英語ネイティヴの外人にも、日本人教師にも「音づくり」ができないのです。
2337 パクパクさん 投稿者:根石吉久  投稿日: 3月31日(日)00時49分56秒

 

>素読には、暗記するという意図がまったくないわけですか?

 暗記は暗記であり、素読は素読で、別物だと思います。
 私は暗記しようとして英語をやったことがありません。
 素読と考えても音読と考えてもいいと思いますが、練習の質を上げることだけを考えてやっていれば、自然に覚えてしまいます。これは結果だけ見ると暗記と同じように見えますが、実際は出来ているものが違うだろうと思っています。化学肥料と堆肥が違うように違うだろうと思っています。

>私が、素読にもつイメージには、エンターティメント性がない。
 素うどんだから、おいしくない。

 素読の「素」は素うどんの「素」だということを書いた覚えがありますが、これは飾りけのないものというような意味でした。素肌の「素」でもいいのです。
 素うどんだからおいしくないっていうことは決められなくて、粉自体の質が良くて、醤油もいい醤油であったら、素うどんはおいしいだろうと思います。
 エンターテイメントだとは思いませんが、素読や音読はそれ自体で楽しいものです。言葉の音楽性というものを身体化するのは楽しいです。仮説ですが、英語という言語のビートというものがなかったら、ロックミュージックというものも成立しなかっただろうと思っています。

>しかし、口に音を出していれば、いつか覚えられるという
 メリットがある。この期待が、当面の苦痛を和らげていたわけです。

 素読には、おっしゃる通り、苦痛を和らげる作用があります。
 暗記という考え方はやせた考え方だと思います。近代の貧しさです。そして、体にとっては苦痛です。
 体がものを言うことができるなら、体は必ず暗記というものを憎むと思っています。
 暗記が得意だという人は、感覚のどこかが狂っているのだとさえ私は思っています。
 素読ははっきりと身体に依存します。
 外在する知識の身体化そのものです。頭に通すのではなく、体を通すのです。

 素読の結果として、テキストを覚えてしまうということは生じます。
 確かに素読は結果をもたらしますが、結果を先に見ないのが素読です。
 暗記とはやはり違うものです。
2375 仏道。武士道。 投稿者:根石吉久  投稿日: 4月 2日(火)11時19分17秒

 

 武士道。「死ぬことと見つけたり」。
 嫌な言葉だと思い、若かった俺はこの言葉を回避した。
 しかし、それしかねえだろう。
 あの世も極楽も天国も信じないまま、「死ぬことと見つけたり」。
 あいつら、欧米どもが理解できない言葉がアジアにはある。
 欧米とアジア。どっちが現実的なのか、それはまったくわからない。

 迷信にからみとられる必要はない。
 死は大いなる解放なのだ。
 わざわざ自分から死ぬようなめんどうなことをする必要はまるでない。
 まして、国や宗教を守るなどとは世迷いごとだ。
 そんなことは頭の狂った奴以外は誰も必要としていない。
 ブッシュもオサマビンラディンも同類だ。

 しなければならないことは、自分の言葉を作り守ることだ。
 作り守ることは、他と交わることだ。

 「一期は夢」
 これに匹敵する欧米語を知っている人がいたら、誰か書いて下さい。
2394 死を扱う技術 投稿者:根石吉久  投稿日: 4月 4日(木)03時09分58秒

 

>英語の”勉強”になると、発音記号という『文字=活字』が一人
 歩きしてしまい、いつのまにか、元になっている『音』よりも絶
 対的な存在になってしまうという、不自然なことが起きてしまいます。

 学問というものは、どうしても「文字=活字」として固定化することを避けられないと思います。発音記号を固定した人(たち?)は、きちんとした学問をした人(たち)だと私は思っております。なぜかと申しますと、この発音記号で英語をやっても、自分で話す英語なら使い物になるからです。
 ところが、リスニングになると、発音記号を頼りに英語をやっても、聞き取れないという結果が生じます。
 これは、発音記号が悪いのではなく、そもそも「固定化」というものが持つ弱点だと思います。その意味では、Hawai'i さんの音に関する分析も、この運命を逃れられないだろうと思いました。リスニングは、まるで固定化の逆、流動してやまないものと対処することだからです。それは、「固定化」という学問の本能から絶えずそれて、磁場を呼吸することでしか成立しません。

 「固定化」や「法則化」は、生の磁場の動態を把握しきれないという運命を逃れられない。しかし、この「不自然」は、学問としては自然です。
 そもそも、学問的な成果というものが、天然自然の方から見ればことごとく「不自然」な固定化であり、この「不自然」を否定するなら、あらゆる学問も学問もどきも成立しません。そうなると、「英語をやるならアメリカやイギリスに行け」以外の方途はなくなります。

 「元になっている音」と言いますが、この音自体が、日本で英語をやる場合は、多くの場合、複製物です。この複製物が生の音を再現しえているという迷信が、広く信じられていますが、私は信じることができません。生の音は生の音であり、複製物は複製物だとかたくなに分けて考えています。
 発音記号自体は、音声複製技術以前に成立していると思います。つまり、生の音を分析して得た記号群だと思います。その記号群をあてにして、音声複製技術による音声を聞き取ろうとしても相当な無理が生じます。生の音を「固定化」しようとした記号群を使って、その後の時代に、まるで別種の「固定化」の技術による音をほぐそうとしているからです。

 しかし、身体化によって、複製音声の内側にもぐりこむなら、生の音を聞き取ることが非常に楽になります。これは、実験済みです。
 ここでも、キーワードは「身体化」だけだと思っています。

 発音記号と「元になっている音」の距離と同等の距離が、あるいはそれ以上に巨大な距離が、生の音と複製物としての音との間にあると思っています。生な音は、その場の当事者になることを強いる音であり、複製物としての音は当事者となることを免責する音です。

 この関係の絶対性を、人々はあまりに軽く考えていると思います。

 私が「磁場」という語を持ち出しているのも、複製技術への「軽信への不信」によります。

 これはまた、生の磁場と語学の机上との距離とも関連します。
 語学が「死」を扱う行為なのだということを理解している人がほとんどいません。