素読舎とどんぐり倶楽部について

素読舎(根石吉久先生)とどんぐり倶楽部(糸山泰造先生)の違いたるやなにか~~~

過去ログからぺたりんこ♪

2007.10
http://sodokusha.yamanoha.com/log/11801-11900.html

吉さん
>語学の道を進むのには、音だけではなく、イメージする力や、ジックリ粘って考える力、なども必要だと考えませんか?

根石さん
 それは絶対に必要ですが、それをコーチが作ることはできません。作ることができるなどと考えるのは不遜なことだと思っています。コーチが邪魔を取り除くことをしても、イメージが発動しないこともあり得ると思っています。その場合、長く続けたコーチの努力は水の泡になります。仕方がないことだと思っています。私は人間の自発性に触りたくありません。

 

 

いざ出発

 

 

 

11930

matsu さん   投稿者:根石吉久  投稿日: 200711 1()053554            編集済

           >一方、糸山さんへ の根石さんの口撃は激しさを増して、どんぐり倶楽部との全面対決前夜 という様相ですよね。このままでは、吉さんがいっそううんざりして、思いを残しながら、根石さんと決別の気持ちを固める、という展開が見えています。

 

 全面対決はないだろうと思います。あちら様は「おとな」でしょうから。

 

 乗りかけた船なのかと思い、今日再び、どんぐり倶楽部の別のページを読んだら、なかなかいいじゃねえかというところを見つけました。それは、一言で言え ば、「ゆっくりでいいんだ」「結果じゃなく過程が大事なんだ」というだけのことでした。それだけなら、私も同意できます。文部省の元における小学校批判 も、(名指ししていない)公文批判も、うんうん、それでいいでしょう、と思いました。

 

 私の生徒さんのももこさんが、「ゆっくりやればいいんだというようなところは、糸山さんのいいところだと思うんですが、12歳に強い線引きをするところ はどうなのかなあと思ってしまう」とレッスンの時に言われたのですが、ようやく「糸山さんのいいところ」というのが何を言っておられるのかがわかりまし た。

 高速計算なんか駄目だ、公文なんか駄目だ、というような点については、私に糸山に対する異論はありません。しかし、反復練習が駄目だという点にはまった く同意できません。私の孫は、まさに日本語の基本的な構造を体に備えつつある段階(4歳)ですが、知らない言葉に出会うと、面白がって、ときどき自分で勝 手に「回転読み」みたいなことをやります。(字を使わないし、教室で学習するのでもないし、遊びみたいに独り言を言っているだけですが。)言葉を獲得する 途中では、「反復」というのが必要だから、孫は勝手に「反復」をやっているのでしょう。自分に向けて確認しているのでしょう。私も他の家族も、孫に反復の 必要性など一言も言ったことがありませんが、遊びみたいにして勝手にやっているのをたまに目にすることがあります。

 言葉の習得には「反復」は必要です。必要だから、面白がって遊びみたいにして、私の孫はやっているのです。算数方面から、言葉方面で生じることの「絵 図」を描いても、そんなもの、まったく見当違いだよ、ということです。「良質の算数問題」からできる言葉の力なんかなんぼのもんじゃいとしか思えません。

 そんなことじゃ、戦後日本の貧しさをさらに貧しくするだけじゃないか、とも。

 糸山は、論はできる人ですが、言葉にろくに血が通っていない。それがあの、何というか、事項だけ次々と繰り出すだけの文体です。糸山に言いたいのは、 「足元を見ろ」です。文章に(言葉に)血を通わせることをしないで、何が「豊かな心」かよ。この点では、吉さんの方がよっぽどいい。異なる論の間で、引き 裂かれた生身の言葉を公開するだけ、ずっといい。吉さんが糸山を師にするなどは、もったいないのです。糸山が吉さんの引き裂かれ方を師にするがいいので す。

 

 そんなことを書こうかと思って掲示板を開き、matsu さんが書いて下さっているのをみつけました。

 

 一読、ありがたく思いました。

 

>子育ての方法論を提供するのが「教育論」ならば、糸山さんはその分野で優れていて、成果をあげている方なのかもしれません。しかし、そういう教育論は、 教育成果をあげるという目的のための手段なのであって、たとえば、教育とは何か、子どもとは何か、人間とは何か、という問いをつきつめるものではありませ ん。

 

 糸山の論では、無差別殺人をやった永山則夫が、刑務所で字を覚え、言葉を覚え、人の気持ちがわかるようになっていった過程にはまるで触れることができな いと思いました。糸山の論では、永山則夫は無差別殺人をやった時点で、「幼児期に育てるべき判断力を育てられていない状態で12歳をすぎてしまっている子 供大人」説を補強する格好の例にはなるでしょう。しかし、心というものが「12歳」という線引きなどで決定されるものではないということ、20代でも30 代でも40代でも、人間が生きている間、ボケルまでの間、あるいは死ぬまでの間、心は成長するということが無視されるだろうと思います。

 永山が刑務所で自分の心を育てた過程は、「12歳」という線引きを完膚無きまでに否定するはずです。

 「12歳」という強い線引きに対しては、私はこれにどうしても脅迫めいた臭いをかぐのです。アメリカから論拠を借りてきて、時代の荒れを自説の補強に 使って、これを売れば売れるわなとも思うのです。

 そりゃ、幼児から子供時代を経て作られる「思考能力の祖型」ができあがる時期はどこかにはあるだろうと思います。しかし、それができていくのは「12 歳」で終わりであり、以後は別過程だとされるなら、60に近くなってきた年齢で、「子供大人」の一人をやって公開している私としては、ふざけんじゃねえぞ この野郎、としか言いようがありません。「思考能力の祖型」ができるのは、7,8歳の場合もあるだろうし、12,3歳の場合もあるだろうし、16,7歳の 場合もあるだろうし、いずれどこかにあるだろう。しかし、それ以後にだって、それまでに存在しなかった思考回路に新たな血管が形成され、そこに血が通い始 めることはある。そうでなければ永山則夫が人の気持ちがわかるようになったということはどういうことになるのか、まったく説明がつかないではないか、と。

 

 糸山はいいことをいっぱい言っている。駄目なのは、「12歳」論です。借り物だからです。

 

 糸山の論は、アメリカの調査のデータを借り物にした決定論ですが、この決定論であるところがどうにも気に入りません。借り物である「12歳」論がアホく さくて、鼻が曲がります。

 

 吉本隆明は、「思考能力の祖型」ではなく、「心の祖型」という意味あいで、3歳くらいまでに決まるというようなことを言っています。それは幼児と母親の 関係で決まるとも言っています。「心の祖型」=「三つ児の魂」という意味で、これならよくわかります。糸山の論の「12歳」というのは、「心」ではなく 「思考」に関してだというふうに糸山は逃げることができるのでしょうが、糸山は「心」の形成と「思考」の形成を(わざとなのかどうか)混同させています。 こんな混同も決定論も両方とも要らないものです。

 妊娠可能な年齢を、思考回路形成の、ええとなんだっけ、臨界期だっけか、それに同致させることにも何の根拠があるのかと思い、けっ、と思ってしまいま す。

 

 永山を持ち出さなくても、私自身が中学二年頃から19歳頃まで落ちこぼれだったことを持ち出すのでもいいのです。私が実質的に英語をやり始めたのが19 歳だったのですが、それまではただの落ちこぼれでした。19歳でそれまでの落ちこぼれの歴史をひっくり返すように急に激しく英語の「勉強=喧嘩」をやった のでしたが、それは糸山の言う「豊かな心」なんぞというものより、はるかに永山則夫の無差別殺人に似ていました。相手が生身の人間ではなく、英単語や英語 の構造だっただけで、「勉強」などと呼ぶより「殺し」と呼ぶ方がはるかに実質に近いのです。そして、この「嵐としての一年間」の後に、私は日本語の詩が読 めるようになったし、批評が読めるようになり始めたのでした。それまでの生涯では味わったことのない味でした。つまり、(糸山からすれば)「こんな遅い年 齢」になってさえ、思考も心も変わるのです。人が心を駆使して考えるということを「媒介」にできさえすれば、「12歳」も糞もない。

 糸山は、私の19歳という年齢で生じたことをどう説明するのか。刑務所で永山則夫に生じたことをどう説明するのか。刑務所の中を無視するのと同じように 無視するのか。

 「心の祖型」ができるのは三歳までだということには、何の違和も感じないのに、「思考回路形成臨界期=12歳」にどうして強い違和を感じるのかと言え ば、私において、「思考の祖型」ができるのが、19歳頃まで続いたと思っているからです。それほど私はトロイ子供だったのです。

 私の親は、3歳までの私の「心の祖型」を決定したかもしれません。しかし、「12歳まで」というところにはまったく無策で、意識的に何かをした形跡はま るでありません。私はただ、見守られ、放っておかれただけです。「見守られた」ことも、「放っておかれた」ことも今は有り難く思っています。

 糸山の言う「絶対学力」なんか、私の19歳に何の関係もなく、むしろ、この社会の成り立ちに対する怒りが大いに関係がある。そして、19歳で暴発するま での思考を育ててくれたのは、「言葉」が最大のものです。「言葉さえ奪われなければ」という思いが今も私には強くあります。「学力」だの「視考力」など は、「心」とは関係がありません。どちらかがどちらかを「媒介」にするという関係があるだけです。糸山はここを混ぜこぜにしています。混ぜこぜにして、直 線で結んでいます。

 「学力」だの「視考力」だのと、「心」との間には、ねじれた複雑な相互関係があるのですが、糸山は直線で結んでいます。

 

 糸山が単純に「心が育ちにくい時代だ」と言うだけのことなら私は同意できるのですが、「絶対学力」だの「12歳」だの言い出すと、脅迫じゃねえかと思 い、蹴散らしてやりたくなるのです。

 

 今でも子供に本当に必要なことは、見守ることと放っておくことです。

 有害なものを「見せない教育」ではなく、有害なものに対する抵抗素が育つかどうかです。テレビをつけておけば、子供は(幼児でも)(作られた)残忍な場 面を見るでしょうし、子供が勝手にテレビのスイッチを入れることを止める方法はありません。テレビを持たなければ、テレビ一つは解決するでしょうが、他か らもいくらでも有害な視覚刺激は届くでしょう。

 それに対する抵抗素を育てるのは、学力形成などと何の関係もない。「良質の文章問題」などと何の関係もない。大切なのは「親の背中」のようなものです。 これだけはごまかしがきかないところです。自分に見えないところを子供に見られているのですから、ごまかしがきくはずがない。

 

 吉さんは、それをも「見せない」などと考えるからいけないのです。「見せない」といくら固く決意しても、どうしようもなく子供は見ているのです。ぶち切 れて「大風呂敷」に来ないなどということをやっていると、子供の抵抗素が育たなくなりませんか。

 

 糸山の論が、戦後日本の市民社会の「学力をめぐる神経症」に乗じたものであり、学校という枠の中での「思考」を思考だとしていることが、私の中に激怒の ような反応を生じさせるゆえんかと思います。あちら様はいまだ受験のプロであり、私はそこから降りた者であるということかもしれません。

 

>ただそんな切迫した気持ちの求めるものが、教育方法論(たとえば、12歳の境界線論)であるとは、とても思えません。たとえて言えば、自分と家族のいる 場所に根拠を与えるような「ほんもの」をめぐる思想が、それなんじゃないでしょうか。

 

 同感です。吉さんは「哲学」という語を使われますが、必要なのは「思想」だと思います。例えば、語学論がらみで言えば、「磁場帰り」の人として、「磁 場」において生じたこと、内心にどんな血が流れたかということを、自分の言葉で語ってくれることだと思っています。それをやらなきゃ、まともな論にならね えぞと、國弘正雄について考えたことがありますが、吉さんについても同様のことを考えました。(そういうことを考える場所としては、「大風呂敷」が最適な 場所なんじゃないですかね、吉さん。)

 

>根石さんにとって、語学と思想(哲学とも、文学ともいえるかもしれません)は、車の両輪であるような気がします。

 

 先にも書きましたが、語学の「嵐の一年」の後に、詩や批評が(日本語で)読めるようになりました。語学には恩があります。糸山から語だけ借りれば、その ための「絶対学力」は19歳の一年で結実したのであり、「12歳まで」にできていたものではありません。12歳を過ぎてからも、この世の成り立ちにとまど い、迷子になっていたことが形成したものです。

 詩や批評が読めるようになったのは、語学における、語のイメージ核を射抜く一年間の修練によるものであり、修練を面白がった意志によるものであり、その 前提としての(日本語から得た)イメージ形成能力は、19歳までの長い時間にゆっくりと形成されたものです。いまだに「12歳まで」に何の根拠も見いだせ ません。

 思考までアメリカの(データの)「家来の家来」になったんじゃどうしようもない。

 もっとずっとゆっくりやればいいんだとも思います。正直なところを言いますが、私は吉さんの「磁場帰り」のリハビリをやっていたような気もするのです。 別に誰に頼まれたわけでもないのですが。

 

>普通の感覚で言えば、子どもの「異常な」振る舞いを問題にしたくなるところですよね。そのとき根石さんが、さりげなく、大人も子どもと同じように観光で 自然を楽しむというゲームをしているにすぎない、と指摘したのには驚きました。

 

 ここをポイントとして読んでくださったのは有り難かった。うれしかったです。

 

>この掲示板で根石さんと議論を戦わせることの効用を、吉さんは以前書いていましたが、根石さんといっしょに喧々諤々考え続けることの向こうにこそ、吉さ んが求めるものがあるような気がします。

 

 私も吉さんも、一日が終わった「25時間目から」この掲示板に書いていたので、お互いに疲れがあったかと思っています。私の言葉が投げやりになりかけた ところもあったし、吉さんが糸山という人の論にかたくなに固執するようなところもあったのですが、いきなり吉さんの方から断ちきられた時にはびっくりしま した。信仰をめぐる論争じゃあるめえに。

 

 吉さんの引用では糸山を読む気がなくなった私ですが、今日、糸山を読んだのは、この掲示板に書かれた何人もの人の記事のおかげでした。いまだ、吉さんが 私を許せないと同じように、私が糸山を許せないという問題は残っているにせよ、です。

 

 ネット上のつき合いでは、疲れていても疲れたまま書きますし、書き直すとか考え直すとか見直すということをする前に、相手からお返事が来てしまうので、 書き直したり考え直したりする前に、相手からのお返事に応じてさらに書くことになくなります。そんなところからも行き違いが生じやすいのは、こりゃ、しょ うがねえんだと思います。

 ここがそういう場所だということをよく踏まえてちゃんとやってきたという気は私にないのすが、かえってそれがこの掲示板の「なまな感触」になっているか と思います。「哲学や批評のお勉強の場所」(主に大学周りですかね)よりも、私は娑婆の方が好きなんだとも思います。Eliot さんにせよ、吉さんにせよ、私が学校の勉強ができた人となかなかソリが合わないということとも関係があると思います。まして糸山なんかと合わないのは、至 極当然だとも思っています。matsu さんならわかってもらえるかもしれませんが、近いものほど憎み合うのです。近いが違う、からです。

 

 「喧々諤々考え続けることの向こう」を、Eliot さんにも吉さんにも信じて欲しかったと思います。matsu さんが書いてくださった通りだと思います。

 

>とにかく全共闘世代のオヤジというのは、頑固でくちうるさいというのは相場がきまっているのですから・・・

 

 思わず、にやりとしてしまいました。一本とられました。

 

11944

反復   投稿者:らくだ  投稿日: 200711 2()102218         

              初めて書き込みま す。

糸山さんは反復は否定していませんよね。彼はシュタイナーの影響を受けており、シュタイナーは反復を重視しています。なのに、糸山さんの文面から反復を否 定しているようなニュアンスを受け、矛盾しているのではないかな、と質問したことがあります。彼の回答は、体験の反復は良いと。彼の文章題において絵図を 描くことは実体験なんだと認識しています。そして、どんぐりの文章題では何回も同種の問題が反復されますね。これが私の息子には合いませんでした。切れ ちゃうんですよね。またおんなじかよー、めんどくせー!オヤジの方も根気よく続けさせる気力体力無し。で、止めました。どんな方法論でも、つまるところ学 習者と、そのサポーターに合うか合わないかで決まってしまいます。今は、とにかく、毎日一定時間、何事か学習を継続させること。このことのみ考えていま す。やっているのは小説の音読と書写のみ。これだけはやれ!最低限だから。最低限やるべきことをやらない者には、やりたいことをやる権利はない!と、なか ば強制です。音読の習慣さえつけておけば、中学に上がって英語が入ってきてもつながるかなと思っています。今の親は本当に子育てに神経質ですよね。私もご 他聞にもれません。でも、それは仕方がないと思っています。時代状況ですので。めいっぱい神経質に楽観主義でいく、という感じでしょうか。

 

11947

ひきこもり暦22年 さん   投稿者:根石吉久  投稿日: 200711 3()032146       

              >つまりどんぐり倶 楽部に惚れ込んでもそんなに金はかからないということです。

 

 わかりました。私のレッスンの方がお金がかかりますね。データだけ売るのでないので、ごかんべんを。

 

>「米国国立精神衛生研究所のデータ」

http://homepage.mac.com/donguriclub/nature-vol440.html  ぜひこれを読んでいただきたいです。

 

 レッスンの後に、風呂に入り休んでから、どんぐり倶楽部をざっと読んだと同じ程度にざっと読みました。

 これは、脳のどの部分がどの年齢に急激に(あるいはゆっくりと)発達するか、あるいは急激に(あるいはゆっくりと)下向きになるかとということと、IQ との相関関係を研究したものだと思います。

 仮説として、なかなか魅力のあるいい論文です。

 しかし、しょせんIQ周りの研究であり、「豊かな心」とか「抵抗素」とか「思考の暴発」とは何の関係もないものでした。

 そして、一応読んでみたところでは、「12歳=臨界期」などというものはこの論文にはありません。

 糸山はこの論文を援用して、「12歳=臨界期」を言っています。真っ赤な嘘です。

 グラフのいくつかに「12歳」のところに注意すべきだとしたのか、それが調査した年齢(7歳から18歳だったか?)の中央にあたるという意味なのか、年 齢を示す「12」という数字が赤い文字になっています。(丁寧に読む時間があり、赤い文字になっている理由がおわかりになった方は私にお教え下さい。)

 提示されているグラフと論文の私の流し読み(私の辞書に載っていない脳科学や生理学の単語がいくつもあり、流し読みしかできませんでした)によると、 12歳のあたりに見当たる現象として、IQ的に超優秀な子供は、優秀児・普通児よりも、脳の発達が悪くなる=脳の特定の部位の濃さの(増加)において追い 越されるという現象は読み取れました。

 つまり、糸山が言っている「12歳」は、超優秀児(アメリカの論文の言葉では、superior intelligence)が、優秀児や普通児に追い越される年齢のことでした。

 

 superior intelligence は中原中也やランボウのことを思えばわかるし、high intelligence は小林秀雄あたりかもしれませんね。normal は私であり、low はうちの女房だと言えば、さしさわりがあるので、途中でやめときますが。

 

 中原の詩にあったと思います。「下手な(わかっていない)大人に早く手を入れられたかなしさよ」というような意味の詩句が。

 そういうと、糸山が言っていることと同じように聞こえるかもしれませんが、まるで違うと思います。糸山は「12歳」が臨界期だから、12歳になる前に (早く)手を入れろと言っているのです。

 

 中也の詩集を持っている方が引用して下さればありがたく思います。私も持っているのですが、引っ越し後7、8年経つのに、出てきません。日記だけ出てき ました。

 

 いやあ、糸山は実にずるいと思いましたね。

 12歳の赤い字を、「赤信号」だとしているのです。

 

 そりゃ、そのあたりで「優秀児」や「普通児」に(脳の発達において)「超優秀児」は追い越されるのですから、「超優秀児」にとってのみ、「赤信号」かも しれません。「超優秀児」という一種のかたわにのみ当てはまることを、糸山は日本の子供のすべてに当てはまるかのように「12歳」を設定し、「臨界期」だ などと嘘を言っています。詐欺です。

 

 何が臨界期かよ。グラフはどれもゆるやかな弧を描いていらあ。「超優秀児」のグラフだけが、急激に下降線を描いているが・・・。

 

 この研究が示しているのは、マザーグースの(歳をとればとるほど)「おいらますます馬鹿になる」(谷川俊太郎訳)ということでした。

 このことは普遍的で、「超優秀児」も「優秀児」も「普通児」もみんなそろって馬鹿になるのです。(脳の部位のなんとかの濃度だけ見れば)

 その場合、とりわけ「超優秀児」が馬鹿になるスピードは早いというだけのことでした。

 これはまた、「子供の頃は天才。大人になればただの人」と娑婆が言っている現象と同致します。

 この研究の欠点は、low intelligence の子供を対象にしていないことです。superior intelligence high intelligence normal (だっけかな) intelligence だけが研究の対象です。まるで low intelligence の子供はこの世にいないかのような研究です。抹殺するかのようです。

 さすがに、中東の「子供」を、「生活」を平気で殺し潰す国の研究です。

 

(引用)

「学力とは何か~理解力・思考力・判断力の育て方~」

1.「学力」とは何か

・「分かる」と「解る」

・「分かる」から「考える」へ

・指導者の根本的な誤り:思考停止状態を「深く考えている」という保護者

※「悩んでいる」状態と「考えている」状態は全く違う

・考え方を教えなければ学力は育たない(子供任せになってしまう)

※教育の大誤算1:知識を与えて考え方を教えない先生は

「知識が増えれば考える力は自然に育つ」という根本的な間違いを平気で言う。

※肝心なのは考えるとはどうすることかを具体的に教えることである。

「全世界の言葉を全て知っていても考え方を知らなければ何も考えられない」

「一言も言葉を知らなくても考えることは出来る」

 

2.判断力の素は幼児期の安定した感情である。

・「分かる」から「判断する」まで

 「分かる:理解するということ」→「考える:思考するということ」→「判断する:結論を出すということ」

 「イメージ再現」→「イメージ操作(移動・変形・連想・比較:予測・類推)」→「イメージの選択・抽出」

・選択したものを信じる力はどこから生まれるのか

・教育の大誤算2:比較できれば選択できると思っている。

※選択はどれを抽出するかの決断である。決断するには自分を信じる力がいる。

 自信(自分を信じる力)は自分の感情を信じることが出来る確かな体感イメージを必要とする。幼児期の安定した(十分に繰り返された納得できる)体感イ メージが判断力を育てる。幼児にとって「遊び・友達」が重要な理由である。

 

3.長期教育が失敗するとき(学力を育てられない教育)

<幼児期の失敗:知的系統的学習の失敗:知識が思考に繋がるという根本的な勘違い>

・安定した感情をもたせないと異常な判断をしたり、判断できなかったりする。

→安定した感情の養成は幼児期の安定した(十分に繰り返された納得できる)体感イメージを必要とするので本当の学力を育てたいのであれば幼児期に感情が不 安定になることはさせない方がいい。

→幼児期の知的系統的学習は最も害になる(感情の不安定を招く)ストレスを増加させる。

<児童期の失敗:速さが頭の回転を良くする「頭が良くなる」という根本的な勘違い>

・「考える」とは「どうすること」かを具体的に説明して考える練習(イメージ操作練習)をしないとどんなに「読み・書き・計算」を強化しても思考力は育て られない。

・イメージ再現しかしていない「分かる」までなら数をこなせば条件反射的にできるようになるが、肝心なイメージ操作は練習をしないと自然にはできない。様 々な体験の中から子供自身が考え方を発見して学力を自分で育てているのが現状である。全ての子供に学力を与えたのであれば学力そのものである考える力(イ メージ操作力)を育てなければならない。

(引用終わり)

 

 こういうふうにずらずらと並べられると、脅迫だと感じないですか?

 私はむかむかしてきます。

 

>糸山さんは幼児期と児童期を分けて考えています。幼児期の自発的な反復は重要と言っています。

 

 私は今までのところ読むことができていませんが、そう言っているのなら結構です。

 児童期に本当に必要なのは、私は素読だと思っています。それを無視し続けているから、日本はこれほどにもとち狂ってきたのだとも思っています。

 明治時代の優秀な頭脳は、ほとんど例外なく江戸の末期に素読をほどこされています。それが現在に至るていたらくに導いたのは、大正デモクラシーに圧迫さ れて、ルサンチマンを抱え込んだ農本主義や軍部であり、明治の優秀な頭脳ではありません。暴発したのは、竹下夢二と百姓的感覚の関係ですかね。

 強制するのはいけませんが、子供が受け入れるなら、素読を施してあげるのが一番だと今も考えています。

 「イメージの操作」なんかではない。

 じんわりとイメージを持つことです。

 

 じんわりとという意味では、「音読」(斎藤孝史)では駄目です。「素読」でなければ駄目だと思っています。

 素読はいずれ大人になったときに触れざるを得ないものを、冷凍し、種とし、さなぎとするのです。だから、「抵抗素」を作れるのです。

 

 

11948

matsu さん   投稿者:根石吉久  投稿日: 200711 3()035817        

              >『英語どんでん』 で紹介された塾生(岡田君)の事例の背後に、根石さん自身の「嵐の一 年」というような経験があったとは、驚きでした。もっとも重要な経験についてはあえて触れないというのも、批評の極意でしょうか。

 

 岡田ねえ。岡田は東京にいるんだろうか。ちっとも遊びにきやしねえ。どうしているんだろう。サチコに聞けばわかるかなあ。

 岡田について書いたところは、私は割と好きなので、そのうちに引用したいですが、なるべくなら村田君にやってもらいたい。(負担かけてばかりですまねえ がやってくれませんか、村田君~)

 

>ただ、あげあしとりかもしれませんが、「一言も言葉を知らなくても考えることが出来る」というのが糸山さんの言葉であるとしたら、糸山さんの考えが教育 の技術論、マニュアルであって、「思想」ではないことの証左だと思います。それが、いいとか悪いとか言うわけではありませんが。

 

 matsu さんは、私とまったく同じところにひっかかるのだと知り、これまたうれしくなりました。「一言も言葉を知らなくても考えることが出来る」というのは、どう いう考えを考えることができるのか。

 糸山がなかなかいいなと思うのは、人間は言葉で考えるのではなく、イメージで考えるのだというところです。しかし、そのイメージ自体、言葉なしでありう るのだと考えているところがとても馬鹿です。糸山が、「思考」というレベルで想定しているイメージは言葉なしでありうるはずがないのです。

 私は糸山について、いいとか悪いとか言うわけですが、もし本当に「一言も言葉を知らなくても考えることが出来る」というのが糸山の言葉なのであれば、実 に悪いものだと思っています。

 生まれたばかりの赤ん坊も、うんちやおしっこをして腰回りが不快だと泣きます。気持ちがいいとにこにこします。ウチの猫も、外で喧嘩をしてきた時など、 夢を見てうなされたり、うなったりします。しかし、これは糸山が言う意味での「思考」する時のイメージが動いているのではありません。

 身体に基づいた直線的な「感覚」(の神経や苦痛の残像)が動いているだけです。

 糸山がわかっていないものこそ、「イメージ」というものです。

 それが言葉をきっかけとして生じる面しか見ることができず、それを言葉が育て養うのだという面を見ることができていない。そうでなければ、「一言も言葉 を知らなくても考えることが出来る」などというような馬鹿なことを言うはずはないのです。

 

11949

そらまめさん   投稿者:根石吉久  投稿日: 200711 3()04513         

              >実は働いている塾 でも文章題をとりいれてやっているのですが、「お母さんが理解された ら家で使われるほうがはるかにいい です」と言っちゃって、プリント渡しちゃって…塾長からにらまれていますし、「できること」に意味はない、と言うような主張をしてしまうため、しょっちゅ う塾長からダメだしをされています。早晩首になりそうです。。。

それでも好きですので、やめさせられたら寺子屋やろうと思っています。

 

 塾が首になりましたら、「寺子屋」の様子をお知らせいただきたくお願いします。私が原理に据えている素読というものは、まさに寺子屋の時代のものです。

 「自分の塾」と書かれるのでなく、「寺子屋」と書かれたところに反応してしまう私です。

 

>もう一つ、根石さんに申し上げたいことがあります。

糸山先生の「12歳が思考の臨界期」という理論は、アメリカの何チャラというデータに基づいているのではありません。

糸山先生ご自身が目の前のお子さんを見て・感じた結果たどり着かれたものです。

根拠は「目の前の子供」です。

データはその理論を裏付けする資料でしかありません。

 

 データの現物を読んでみましたが、とうていそうは思えないのです。

 糸山が、「目の前の子供」だと受けのいいことを「言っている」だけです。

 私も12歳を過ぎた直後の子供を見ていると、「こいつら、一生のうちで一番気違いの時期を生き始めたな」とは思うのです。

 そこらに何か節目があるのは確かです。人間の成長の結節点のひとつがあるのだろうと思っています。あくまでも、結節点の「ひとつ」が、です。しかし、そ のことで、「12歳」までに思考の回路を整えなければとんでもないことになる(犯罪に至る)などと考えたことはありません。

 

 これを脅迫だと読めない人は鈍いとも思っています。

 

>子供の「自然」を邪魔せぬように修行中です。

 

 子供の「自然」は、食物(に含まれる防腐剤など)で汚され、溶融炉から出るガス(プラスチック類を有機物と一緒に焼却・溶融するときに出るガス)で汚さ れています。「良質の文章問題」よりも、親は自分たちが捨てているごみの問題をもっとちゃんと問題にすべきじゃないのかと思ってしまいます。産業廃棄物 は、産業廃棄物処理業者に渡った後は、その実際の処理方法は「闇の中」です。

 「自然」という言葉から、そう思ってしまいました。

 子供の体の自然が犯され、そのうえ、その子なりのペースを否定され急かされるなら、その子が犯罪に至った場合に、なんでその子だけ責めることができま しょう。なんで親だけを責めることができましょう。

 

 国というものがあることになっています。そんなものが幻想だとは、終戦時の闇市をうろついた人の感覚には残っているはずですが、私が生まれたのはその数 年後でした。

 

 糸山が、現場の先生達にアドバイスをすることは悪いことだとは思いませんが、国家を、文部科学省を、正面から斬りつけることができないことが、糸山の本 質なのです。

 「思考」を教えるだの、「良質の文章問題」を与えるだのでどうにかなる問題ではとうていありえません。

 

>学校のテンポに全く着いていっていません。しっかり落ちこぼれております(笑)。漢字等、面白いくらい覚えません。

 

 ゆっくりでいいんです。親が学校の評価や、学校(制度)の中を貫く「階級制」を相対化(馬鹿にすること)ができていればいいんです。知性は学校で育つの ではありません。「面白いくらい覚えません」というように、面白がっていることが大事です。

 今日書いたことですが、小学生でしたら、素読がお勧めです。一度はすらすら読めるようになるまで、ある難度を含んだ文を繰り返し読ませること。あとは、 「書き取り」ではなく、その文に含まれている漢字を「漢字練習」させればいいと思います。(無機的に)(糞文部科学省が決めた)学年相当の漢字をやらせる のではなく、すらすら読めるようにした文に含まれる漢字を(有機的に)練習させるのがいいと思います。反復の回数は、子供が決める回数の二倍程度ですか ね。

 

>知り合いのうちの可愛がっていたワンちゃんが亡くなっても、友達が神妙に拝んでいる横でに「足が痛いなどと」愚図りまくる。。。「大人好み」の表現はし てくれませんね。

 

 神妙に拝んでいる友達というのが不気味ですね。その子、学校の勉強はよくできる子じゃないですか?

 心に架空の血が通っているだけの子じゃないですか?

 (もし、その子がそのワンちゃんと遊んだことのある子だったら、暴言となりますので、その場合はお許し下さい。)

 

 これからもご登場下さい。

 塾というものの可能性を一緒にさぐっていくのにご協力いただきたく思います。

 

11964

matsu さん   投稿者:根石吉久  投稿日: 200711 4()01358          

              >みなさんが自分の 子育てという目的のための方法論・技術論として、糸山さんの考えを実 用的に使っているからだと思います。

 

 これはいいですね。そんなにお金がかからないようですから、どんどんやってもらっていいことです。糸山を「実用的」に使うのが一番いいと思います。

 あの野郎のイデオロギーにアタマをやられさえしなければいいわけです。

 

11967

もしかして、22年さん   投稿者:根石吉久  投稿日: 200711 4()020624         

               ええと、どなたへ のお答えなのかわからなくなってしまい、それを確認する時間もないの ですが、ひきこもり歴22年さんでしたか?

 ていねいにお答えできませんが、お許し下さい。

 これだけはやってから教材作りに入らなければ、と私の心が言いましたので、私の心に従います。

 

・「心の祖型」=「三つ児の魂」

 

 3歳という年齢で、「心の」祖形は決まるということです。

 「思考の」祖形は「12歳で」というような脅しではありません。

 事実そのままその通りだと思っています。

 

・人が心を駆使して考えるということを「媒介」にできさえすれば、「12歳」も糞もない。

 

 私がこの掲示板開設当初から言ってきたことは、一言で言ってわかってもらえるかどうかわかりませんが、「媒介論ということになります。

 人は、言葉もイメージも磁場中生活も中也の詩も家族の怒りも酔った言葉もなんでもかんでも、「媒介」にできる生き物です。

 外国語習得過程では、「心」までも媒介にするのです。

 ご当人は自覚がありませんが、多くの場合、非常に罪深いことをやります。

 なおさらわからなくなりましたか?

 それとも、小さくてもいいから、何かわかったことがありましたか?

 Jackie さんのために、お応えいただけたらと思います。

 

 私はでかいつらをして生きることに決めました。

 

 

11969

matsuさんへ   投稿者:らくだ  投稿日: 200711 4()18137             

              >ところで、 どんぐり倶楽部から来られた方たちは、みなさん穏やかですね。

 

強烈な皮肉ですね(笑)。私も含みますか?

 

糸山さんについての発言で書き込みを始めましたが、私は「どんぐり倶楽部から来た方」ではありません。時系列で言えば、素読舎を知ったのが先であり、その 後、どんぐり、どちらも見ていない期間が長く続き、最近あるきっかけで吉さんのブログを知りました。そこで吉さんが根石さんと糸山さんのお二人を師と思わ れている、ということを知ったという順序です。結果は吉さんが根石さんの元を去られるということになるわけですが。

 

>みなさんが自分の子育てという目的のための方法論・技術論として、糸山さんの考えを実用的に使っているからだと思います。

 

「思想」に対して「方法論・技術論」、「何かを希求する」に対して「実用的に使う」という二項対立の捉え方は有効でしょうか?「実用的に使っている」方達 も、その多くが糸山さんの「思想」に共感を持ったからこそ、「使ってみよう」と思ったのではないでしょうか。であるからこそ、糸山さんの「思想」を思想と 呼べる代物ではない、ないし、間違った思想だと考える根石さんが糸山さんを断罪するのだと思いますが、いかがでしょうか。違いがあるとすれば「思想」に対 する共感の質と深さの問題ではないかと思います。

 

>この点でも、吉さんの糸山さんへのかかわり方というのは、ちょっと異質だなという印象があります。

 

それだけに、この点に同感です。糸山さんの「思想」に対する吉さんの共感がとても深いので、根石さんと決別することになってしまったのでしょう。実名公開 云々という別の問題があったかどうかについては分かりませんが。残念なことは、これは根石さんがコメントされていましたが、「辛い」とか「気持ち」とか、 吉さんの、それこそお気持ちは分かりますが、もう少し論を交えてほしかった、ということです。          

11970

らくださんへ   投稿者:matsu  投稿日: 200711 4()204415            

              ご指摘、ありがとう ございます。

 

もし皮肉があったとしたら、自分の気持ちとしては、根石さんに対するものの方が強かった気がします。そんなに激昂しないでほしい、と。

 

広い意味で「思想」という言葉を使うなら、らくださんのおっしゃるとおりだと思います。

ただ、僕が根石さんに対して使った「思想」とは、いいかえれば、本質論みたいなもののことです。根石さんの糸山さんに対する批判のポイントは、ここに言語 の本質論、ひいては人間の本質論が欠けている、ということだと思いました。

(僕自身は、本質論を欠いたすぐれた実用思想というものはあるし、それへの深い共感も当然ありうると考えます。)

あえて「本質論」対「方法論」という二項対立を持ち出して問題を整理しようとしたのは、吉さんが、根石さんの激昂の理由を了解して、根石さんの語学論と糸 山さんの教育論を自分のなかですみわけてもてるような理屈を、示唆できるかもしれないと思ったからです。そうすることで、根石さんの信頼厚いパートナーに 早く戻ってもらいたい、と。

 

なんともおせっかいで軽はずみなことですが、そんなことをしようと思ったのは、僕が根石吉久の文学のファンだからだと思います。村上春樹ファンにしろ、吉 本隆明ファンにしろ、ファン心理というものは身勝手でおっちょこちょいなものですから。 

 

11971
村田君 投稿者:根石吉久投稿日: 200711 4()232531秒    編集済
>「体験の反復」これ、ひっかからずに読んでました。

 私もアタマがはっきりしないまま書いていたなと思い直したところです。
 「体験の反復」はありうる(多くの職人が「体験」を反復している)のですが、「体験」という語を無限定に使えば、なんでもかんでも「体験」になってしまうではないかというのが言いたかったことでした。
 自転車に初めて乗れるようになった体験、糸山作成の良質の問題集の問題を解く体験というように、「体験」という同じ語が使えてしまいます。で、どっちも「体験」だとしてしまえるのが、この語が日本語としていまだ熟していないということだと思います。本当に熟した語を「・・」とすれば、「・・」という語 は、自転車に乗れるようになったことには使えるが、良質の問題を解くことに使ったら変だという具合に人々の間ですぐに了解が成り立つはずです。それを成り立たたせるうまい語が日本語にない。ぴったりくる語がないことに糸山は乗じており、だからあんなあやふやなもの言いがまっとうなもの言いとして人々に受け 取られてしまうのだというのが、私の「激昂」の理由なのではないかと思っています。

 そこからもう一つ言えるのが、本当に人々が「言葉ではなくイメージで考える」なら、糸山なんかにアタマをやられることは起こらないはずだということです。みんな詐術を含む「言葉」にやられてしまっているのです。

 らくださんがシュタイナーのことを書いて下さっていますが、私はシュタイナーはまるで読んだことがなく、糸山がそれをどう援用しているのかよくわかりません。もしとんちんかんなことを言っていたら指摘していただきたいとお断りしたうえで書くのですが、シュタイナーに「体感」を通じた教育のすすめというも のがあるのかなと推察しています。それは簡単な例で言えば、手で使うドライバーについて、「時計の針が動くのと同じ方向に回せばネジが締まる」という言葉として(知識として)教えるのではなく、実際にドライバーを子供に持たせてネジを締めさせたり緩めさせたりするのがいいのだということなら、私はこれに何 の異論もありません。ネジの成形によって、まったくその逆のことが起こることを知るにも、「逆になるネジもある」という知識の言葉ではなく、実際にそのネジとドライバーを使って、右に左に回させる(体感させる)のが大事である、とか。それに異論はありません。どんどんやっていいことだと思います。
 その場合にも、素読を元に据えている私から言わせれば、「ドライバーを時計回りに回せばネジが締まる」という言葉をすらすら言えるようになった子供に、実際にドライバーを持たせて回させるというのがいいということです。ドライバーを使ってネジを回させてから、「ドライバーを時計回りに回せばネジが締ま る」という言葉を素読させるという順序でもいいが、言葉による知識と「体感」を通じた「体験」の両方を子供に与えるのがいいということになります。「体感」と「知識」がつながらないというのが、現代の教育の最大の問題点だということには異論がないし、私のようなものにでも、それへの処方箋の一枚や二枚は あるのだということです。
 こういう実用に役立つ方面では、「ドライバーを時計回りに回せばネジが締まる」というような言葉はすぐに不要になります。子供は「だって、体で覚えてるもん」と言うはずです。「言葉なんかなくたって、間違えない」というはずです。実用方面の知識では、すぐにそうなるが、実用するために非実用をくぐる必要 がある算数数学、語学などでは、「言葉」はそんなにすぐに不要にはならない。

 また、「体感」を欠いているのが、現在の学校の授業であるとか、「体感」欠如をさらに決定的なレベルに持ち込んでしまうのが、テレビゲームであるとかいうことにも私はまるで異論はありません。
 残酷なシーンがあるからテレビゲームをやらせたくないというよりも(それもありますが)、素朴なレベルでの「体感」を子供から奪うからやらせたくないと思うのです。映像とイメージと刺激によって、素朴なレベルの「体感」が奪われるからであり、それが残酷なシーンを含むからではない。ぎりぎりの基底を求め るなら、そういうことになります。
 そこから、再度、今の学校の授業なんてものは、本質的にはテレビゲームみたいなもんじゃないかという批判が立ち上がるべきなのです。それを言わない。親も言わないし、現場の教師も言わない。それが駄目なんだ。だから、糸山が医者づらをして登場するんだということです。

 「体感」を通じたものを「体験」と言うのなら、糸山の文章問題を解くことを、それと同じレベルで「体験」ということはできるはずがありません。糸山は、糸山作成の文章問題を解くことのどこに「体感」があるというのでしょうか。
 らくださんが書かれていましたが、糸山が糸山作成の文章問題を解くことを、「体験に似たもの」と本当に言ったとしたら、これは実にたちの悪いもの言いだと思います。似て非なるもの、というより、本質的に違うものについて、「似たもの」などと言っているのです。米国国立精神衛生研究所でしたか、正確な名前 を忘れましたが、そこが出した論文を自説への援用に使う使い方がまったくの詐術であるのと同様の詐術がここにあるのです。
 糸山が使う「体験」という語一つについて、これだけのことを考える人間がいるのだということについて、糸山はなめてかかっているのです。
 それがどれほどよくできたものであれ、算数の文章問題を解くことが「体験」であるはずがない。それが体験であるとすれば、「問題を解くという体験」でしかない。それなら、他の問題集の問題を解くことと何の違いもない。
 糸山作成の文章問題を糸山が自分で「これはとても質のいい問題なんだ」と言っている分には別に目くじら立てることはないのですが、「体感」を通じた「体験」と同じだとか、似たものだと言い出すから、そこから詐欺が始まるのです。
 糸山は、多分、いい問題を作れる塾のセンセイなのです。だから、親は「実用」すればいいのです。それだけのことなのに、調子に乗って、「イメージ」だの「体験」だのと、上等そうなことを言い、アメリカの論文なんかを自分の説の箔付けに使い、学力回りの神経症に脅しをかけるあたりから、私の「激昂」になっ ていくのです。
11972
絵図 投稿者:根石吉久 投稿日: 200711 5()000858秒    編集済
 糸山は「絵図」が あるから、自分のやつは他の方法とは違うと言うでしょう。そんなもの、私の「電話でレッスン」には「音づくり」の方法があるから他の方法とは違うというのと何の違いもありません。
 絵図は、考えをはっきりさせたり、整理したり、範囲を限ったりするために有効な補助手段ではあるでしょうが、それが「体感」を通じた「体験」と「似たもの」だなどと言い出すと詐術になるのです。

 私の方法には「音づくり」だけではなく、「電圧装置」も「回転読み」も「切断読み」もあります。これらは、糸山の「絵図」と同じように、アタマの中で泥みたいな考えをこねくり回すのを回避し、思考をより具体的にする方法だという意味でなら、ひとつひとつみんな具体化の方法です。

 それを無限定に「体験」だとか、「体験に似たもの」だとかいうことを言ったことは私にはありません。そんな嘘はいやなのです。

11977
らくださん 投稿者:根石吉久投稿日: 200711 5()063114
>私は数年前にシュ タイナーの人智学およびその人間観・教育観と、糸山さんの「算数文章問題」との関係について質問しました。

 <似ている>については、村田君宛の記事で書かせていただきました。考えが動いている最中のものは、本来書くべき人に向けてでなくて、他の人に向けても書いてしまいます。失礼しました。

>・シュタイナーのいう反復や暗唱の重要性は単に反復するということではなく体験を積み重ねることで深めるということ。単なる繰り返しを意味してはいない。

 シュタイナーだろうが、糸山だろうが、根石だろうが、コーチ側からは、そんな区別は成り立たないと思います。「体験を積み重ねること」と「単なる繰り返し」の区別を成り立たせるのは、生徒側にあります。
 シュタイナーの反復はそんじょそこらの反復ではないなどということはない。反復は反復であり、シュタイナーだから特別な反復になるわけがない。あくまでも生徒の興味がそれに向かうかどうかで決まるのだと思います。
 コーチ側が、生徒に興味を持たせるように努力することは成り立ちますが、それでも興味が生じるかどうかは、あくまでも生徒側で決まります。興味があるなら、反復のたびに、微細な読みの違いを同じテキストに対して付加するようなことが生じます。
 シュタイナーの反復だから特別な反復だなどということではなく、生徒が興味をもってやっていることだから、機械的な反復でなくなるわけです。百歩譲れば、それが「体験を積み重ねること」だと思います。私はそんなふうに「体験」という語は使いませんが・・。
 微細な読みの違いを重ねていくことで深まるものがあるはずです。それを名付けようもありませんが・・。国弘正雄の「只管朗読」の回数が、数十回やそこらでなく、500回、1000回であることを指して、馬鹿げていると言った人が私の生徒にいましたが、馬鹿げているのはこの生徒の考えだと思います。
 私が実験したところによれば、300回の反復には300回なりの習熟度があり、500回の反復にはやはりそれを上回る習熟度があります。機械には生じるはずのない習熟が生じます。このあたりは、柳宗悦の民芸論がうまく説明できています。文章のタイトルをとっさに思い出せません。益子の土瓶絵を描くおばあ さんについて書いた文章です。思い出しましたら、書きますが、(掲示板の読者の中で)すぐにおわかりになる方は書いていただくとありがたく思います。
 そのおばあさんは、500回1000回どころではなく、同じ土瓶絵を何十万回も描いたのです。そこに、いかなる意図をも越えた美が生じているということに柳は着目しました。この美には、才能とか個性なんか何の関係もない、と。無心だけが生む美がある、と。
 単なる反復は駄目だなどというのは、貧乏くさい考えです。機械ではないのだから、人間は単なる反復などやることはありません。無理にやらせるから、単なる反復をやるようになるだけです。あるいは、50回だの100回だの、けちくさい回数だから単なる反復をやるのです。益子のおばあさんのように、数十万回 やるなら、単なる反復を続けられるものではありません。どうしたって、習熟し、洗練されて、美に至ります。
 私は貧乏ですが、考えが貧乏くさいのがとても嫌いです。
 糸山は貧乏くさいと思います。

 「単なる反復」が、多くの人に意味があります。
 「単なる反復」が本当に単なる繰り返しになった生徒が、私のかつての数百人の生徒の中に一人だけいました。からっぽのドラムカンをひっぱたいているように、音自体がからっぽでした。非常に不気味な思いを持ちました。そのことは忘れられません。反復という方法にではなく、その子のそれまでの家庭での生活に 原因があるのだろうと思いましたが、それが何なのか今でもわかりません。

>・「とことん考える」ために「算数文章問題」をするのではない。これは「目で考える」練習。
・「目で考える」ことと「体験の反復」は似ている。

 この辺のことがおわかりでしたら、ご説明願いたいのですが。「視考力」だの「目で考える」だのが、何のことかいまだまるでわかりません。それが絵図が描ける能力のことを言っているのだとすれば、考えが転倒していると思います。イメージによって、ある論理がつかまるから、それが絵図に描けるようになるので あり、目に見えるものになるのです。いきなり最初から目で考えているのではない。元になっているイメージの力は、目だけあっても動きはしません。言葉がそれを養うから動くようになるのです。初源は、言葉なのです。
 不定形のイメージは犬や猫や生まれたばかりの赤ん坊の中にも動くでしょう。しかし、それが意識における一瞬の意味になり、絵図にしうるまでになるまでに、言葉が無数のイメージを養う過程があります。具体的なイメージはその無数のイメージから養分を得ていますが、どこかで必ず言葉を媒介にしているはずで す。
 「視考力」などという言い方そのものが、「過程」をすっとばした言い方なのです。だから、その他の糸山の言葉がすべて空疎なものに響くのです。

>> 親はコーチとしては、非常に多くの場合に不適です。

>それはおっしゃる通りだと思います。文科省がゆとり教育を打ち出し、今度はそれを否定する方向で右往左往していますが、ゆとりなど生ぬるいことを言わずに、学校教育を1/3ぐらいに縮小し、その分、税金を返してくれるとよいのですが。そうなれば、英語は素読舎で、運動はサッカーのクラブチームで、音楽は地元の合唱団で...とでき、親が無理してコーチングなどする必要はなくなります。

 まったく賛成です。空回りの無駄なところ(学校の「体感」を欠いた授業)に国民の税金が使われ、糸山の「絵図」や、根石の「音づくり」に金が回ってきません。(糸山には回っているのかもしれませんが、要するにまともに方法を追求した塾に回ってこないということです)。
 本論から外れますが、私は糸山の「絵図」を使う方法を否定するものではありません。糸山の「言葉」や「イメージ」や「繰り返し」に関する考えが偽物だと言っているだけです。

>>なんで小説なんか音読の対象に選ばれたんでしょうか。「音読」をやるのなら、エッセイがいいと思います。

>小説よりエッセイが良い理由を教えていただけますでしょうか。また、息子は小6なのですが、読ませると良いエッセイをいくつか推薦していただけるとあり がたいのですが。

 うまく言えるかどうかわかりません。書き言葉で書いたものは、自分にも向けられており、相手にだけ向けられている話し言葉よりも、「作り物」です。書き言葉であるだけで、話し言葉の一重が壊れ、二重になっています。(この二重性は、話し言葉では、「独り言」に現れます。自分に向けてというベクトルと誰か 特定(不特定)の人に向けてというベクトルの両方が現れます。話し言葉が二重性を持つので、「芝居」っぽくなります。)
 小説は書き言葉という二重の言語を使って、さらに「彼」だとか「彼女」を動かし、構造体を作るわけで、二重のものがさらに二重化されるジャンルです。
 エッセイは、二重の言語(書き言葉)を使って、言説、感想などを、「書いている者のもの」として、一重にとどめるジャンルだろうと思います。そこが、構造として「素朴」です。
 小説では、書いている人がどこにどんな思いをして生きている人かは、作品の世界とは直接の関係がありません。エッセイは、そこが直接的で、子供に入りやすいと思います。(おしゃまな物語り・小説大好き少女なんかは、このあたりの構造を苦もなく越えてしまうでしょうが・・。)
 で、人間は全員がおしゃまな少女なわけじゃないので、構造として「素朴」なものを手始めとするのがいいのでは、と思ったわけでした。
 ふう。勢いにまかせて書いちゃうと、後で説明するのに、えらく苦労しますね。
 具体的に何がいいのか。ちょっと思いついたのは、内田百間(間のモンガマエの中を、日ではなく月にするべきなのですが、パソコンが漢字変換しませんのでお許しを)でした。
 昔、塾で「ノラや」を素読の素材にしたことがありました。
 文章が、子供にとって難度を含むものがいいと思います。
 難しすぎず易しすぎないのなら、何でもいいと思います。
 テキストの選択は、親が好きなエッセイということでいいのじゃないでしょうか。

>それともう一点、素読は意味の分からない文章を読む、音読は意味の分かっている文章を読む、という区別でよいのでしょうか?

 原則的にそう考えています。「意味の分かっているもの」というより、読めば(その子が)、すぐに意味が「わかるもの」が音読用のテキストなんだという区別です。

>
> じんわりとという意味では、「音読」(斎藤孝史)では駄目です。「素読」でなければ駄目だと思っています。
>音読はダメで素読が有効ということであれば、意味の分からない漢文とか古文とかの方が良い、のではないかと思ってしまうのですが。

 漢文(の日本語化した読み)を子供に読ませるというのが江戸時代の素読の多くを占めていたと思いますが、現代の素読というか、私が考えている素読は、「難度を含むもの」をテキストにするということです。もちろん、漢文や古文も難度を含むというか、難度ばかりでできているものですから、それをやっていけ ないこともないのですが、最初にやるのは、「難しすぎず易しすぎず」がいいと思います。現代のものでもいいし、明治大正のものでもいいと思います。親が好きなものがいいと思います。
 どうして難度を含むものがいいかといいますと、例えば、わかる部分半分、わからない部分半分のテキストで考えますと、子供はわかる部分を使って、わからない部分をわかろうとするからです。「こういうことだろう」と思っていたものが、「反復」するうちに、「いや、ちがうみたいだな、こういうことなんじゃな いか」と読みが重複化されるからです。それがイメージ形成力を作ります。
 これは、素読のテキストではありませんが、「夕焼け小焼けの赤とんぼ、おわれてみたのはいつの日か」という歌の文句の「おわれてみた」というのを私は大人になるまで、「追われてみた」と考えていました。大人になってから、ああ、そうじゃねえんだ、子守の背に「負われて見た」のだと気づきました。「追われ てみた」じゃ、えらく余裕のある赤とんぼになるな、「おい、追いかけてきてみな、追われてみてやろうじゃないか」というこにくらしい赤とんぼというか・・。そういうんじゃないんだ!
 で、この歌が文語の作詞でできているのだということがわかり、その言葉の古さを味わうことに導かれたわけです。
 私の友達は、「・・・、ああ、女学生」というような歌詞の、「女学生」が、「じょがぁくせー」と発音されるせいで、「じょ、っていったいなんだろう。どうして臭えんだろう。どんなに臭えんだろう。じょ、っていうのはとにかく臭えわけだな」と真剣に悩んだと言います。「じょが臭え」だと思っちゃったわけで す。
 素読でも、テキストが難度を含むため、子供が勝手な解釈を施すことがあります。放っておけばいいのです。要するに子供の意識を???でいっぱいにすればいい。そうすると、むむっ?と思って、読みの重複が往来します。正解なんか与える必要はない。そんなものはいずれ訪れてくる。(一生訪れて来ないなら来な いでもいい!!!)
 それよりも、子供の意識を???だらけにすると、イメージの誕生を促すことになるというところに注目すべきだと思います。それが、「難度を含む」ことの功徳です。
 すぐに正解に導きたがる学力回りの神経症の貧乏くささに比べたら、これはとても豊かなゆるやかな、たおやかと言ってもいいくらいの方法だと思います。

>「なかば強制」の「なかば」をとった「強制の習慣」とならないことを願っています。

>「なかば」を付けた理由は、最低限の自覚は持っている意思表示のつもりです。「強制」と言えば、「素読舎っていう面白い英語塾があるんだけど、レッスン受けてみるか?」も「え?根石先生が厳しいから、もう嫌だって?おまえ、そんな簡単に辞めていいのかよ。もう少し考えてみろよ」も強制と考えています。
全くの放任はあり得ない、という意味での「強制」です。

 釈迦に説法でした。

>ニュースになった医師一家の話は痛ましい事件ですが、あの家庭は極端な例だ、という気持ちと、全くの他人事と切り捨てることはできないぞ、という気持ちとがあります。

 ほんとうにそうですね。現代に子供を持った人たちが持つ不安を正確に言い当ててくださったと思います。

 

以上

糸山さん

視考力(目で考えること)の大切さ・楽しさ・ラクさを子供達に意識させると子供達は自力で成長することができるようになります。なぜなら、目で考えることは誰もが生まれたときから最も頻繁に使っている最も簡単で効果的な学習方法だからです。幼児期に付けなければならない本当の学力とは視考力のことだったのです。私達は誰もがこの得意技を持って生まれているのです。産まれたばかりの赤ん坊でも、視覚系のメカニズムは大人と変わらないことが知られています。ということは、視覚イメージでの思考を始めているということです。
 

根石さん

イメージによって、ある論理がつかまるから、それが絵図に描けるようになるので あり、目に見えるものになるのです。いきなり最初から目で考えているのではない。元になっているイメージの力は、目だけあっても動きはしません。言葉がそ れを養うから動くようになるのです。初源は、言葉なのです。
 

不定形のイメージは犬や猫や生まれたばかりの赤ん坊の中にも動くでしょう。しかし、それが意識における一瞬の意味になり、絵図にしうるまでになるまで に、言葉が無数のイメージを養う過程があります。具体的なイメージはその無数のイメージから養分を得ていますが、どこかで必ず言葉を媒介にしているはずで す。
 「視考力」などという言い方そのものが、「過程」をすっとばした言い方なのです。だから、その他の糸山の言葉がすべて空疎なものに響くのです。
 

本論から外れますが、私は糸山の「絵図」を使う方法を否定するものではありません。糸山の「言葉」や「イメージ」や「繰り返し」に関する考えが偽物だと 言っているだけです。
 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

このあたりで、お二人の「言葉」と「イメージ」に対する違いがわかりました。

わかるとは「言葉(文字)とイメージが一致した瞬間です。」  ここは共通のこと!!

でも、「言葉」「イメージ」「繰り返し」のとらえ方の激しい違いがありました。

 

私ももっと考えます。音を聞いて、多様な「イメージ」の中からつかみ取るのが「言葉」と思いましたが、

どうかな。

9歳、10歳、12歳の年齢制限のあたりは、どうでもいいというかあんまり気にならないといえば嘘だけど。

過去の糸山先生関連では9歳という記載、先日テレビでやってたのは10歳、この掲示板では12歳・・・

やにわに「せかされて」「あせらされて」しまうのは確かだな~~~~

育児ははじめてのしかも責任ある経験だからね、誰かを頼りたくなってしまいませんか?

 

 

それから、「視考力」という造語を使うときに 

かなり言葉に対して乱暴になってるという気がしてしまいました。 

http://homepage.mac.com/donguriclub/trigger.html

上記urlから引用

 視考力(目で考えること)の大切さ・楽しさ・ラクさを子供達に意識させると子供達は自力で成長することができるようになります。

なぜなら、目で考えることは誰もが生まれたときから最も頻繁に使っている最も簡単で効果的な学習方法だからです。

幼児期に付けなければならない本当の学力とは視考力のことだったのです。私達は誰もがこの得意技を持って生まれているのです。

産まれたばかりの赤ん坊でも、視覚系のメカニズムは大人と変わらないことが知られています。

ということは、視覚イメージでの思考を始めているということです。 


ですから、言葉を知らなくても「分かる=見える」のです。 

学習にこの得意技を使わない手はありません。鳥は翼を使って飛ぶことで本領を発揮します。人は視考力を使って情報を処理することで本領を発揮するのです。 

終わり

 

 

言葉を知らなくても「分かる=見える」 かぁ~~~

わかるとは「言葉(文字)とイメージが一致した瞬間です。」  ってどこかで書いてあったんだけど、

それを書いた人が、そんなこと言っちゃっていいのかな~~~~矛盾してませんか。

 

それから、「視考力」という造語を作り出した糸山さんに、無いものは、「音」なんだろうな。

根石さんは「音」があり、逆に「絵」は無い。言葉がつむぎだすイメージはあるだろうけど。

対象とする「畑」が違うのかな?と思う。

だから、相容れないのは仕方ないのか??

 

 

でも、わかるとは「言葉(文字)とイメージが一致した瞬間です。」  ってのは一致してる。

 

う~~ん

 

先日中国の小学校算数教科書を見る機会があって、

パンダとか、目があまりでかくない子どもの絵とかかわいらしく、疲れずに眺めていたのだけど、

いくら絵が書いてあっても、中国語がちんぷんかんぷんで、設問が全然理解できなかった。

趣旨から外れるかもしれないけど・・・

言葉を知らなくても「分かる=見える」 とは言い切れないんじゃないかな~~

 

 

でも、どんぐり倶楽部の問題は好きです。すこしづつ親子で解いています。

ただ、疑問を持ってしまいました。

言葉を知らなくても「分かる=見える」ってどういうことなんだろう?

 

掲示板から引用

素読舎の小学生用の練習

  投稿者:根石吉久  投稿日:2011年 3月 9日(水)21時54分15秒
編集済
 
  素読舎の小学生用の練習は、日本語の練習の要素が大きいことについて、江戸の母さんが書いておられますので、これにお答えしておきます。

 素読舎の語学論は、英語の学習法について論じてきたものですが、実は、英語という個別言語、日本語という個別言語を突き抜けています。

 例えば、音とイメージの関連を述べる場合、そのこと自体は、英語にも言えることであり、日本語にも言えることです。ヒンドゥー語にもポリネシア語にもドイツ語にもフランス語にも言えることです。この地上のどこに住んでいる人にも言えることです。
 逆に言えば、学習者にとっての音とイメージの前後関係や相互関連をきちんと把握できれば、そのことは日本語の練習にも英語の練習にもその他の言語の練習にも「同時に使える」ということです。
 そして、そのことこそが日本の小学生の練習にとって必要なことなのではないのでしょうか。音とイメージの間のダイナミクスは、言語の練習だけでなく、学校の他の科目にも使えるのです。根底にあるのは、「音」と「イメージ」という普遍性ですから、あらゆるところに静かに影響していきます。

 しかし、子供の中に音に対応するイメージを作り出すなどということは誰にもできることではありません。
 ある具体的な文における一単語の音がどういうイメージを喚起すべきなのか大人がわかっている場合、そのイメージとまったく「同じもの」を子供の中に喚起する方法は「ありません」。
 この場面で、説明というものはまったく無力です。説明してわからせようとすれば、「そのことによって」イメージが「同じもの」では「ない」ものに変わってしまうからです。

 大人が説明して子供が持つようになるイメージ。これは、テスト用の知識に近いものです。
 子供が誰に説明されたわけでもなく自分でつかんだイメージ。これは、判断力の元になるようなものです。

 この二つはすでに違うものです。根底からして違うものです。

 大人が子供に対してやれることは、子供が自分でイメージをつかみに行く場合に、「邪魔になるものを取り除いてやる」ということだけです。
 素読において「すらすら読めるようにする」ということは、「邪魔になるものを取り除いてやる」をしているのです。

 逆に言うと、「すらすら読めない」ということが「邪魔になるもの」そのものなのだということになります。

 「すらすら読めない」からイメージがつかめないという場合が音とイメージの間には多くあります。非常に多くの場面にこれがあります。算数の文章問題が解けない子供にとって何が問題なのか。蓋をあけてみたら、最大の原因が、「すらすら読める」レベルを獲得してないからだったというような事例はごろごろしているはずです。「すらすら読める」レベルにしてやったら、子供が面白がって文章問題をやるようになったなんてこともいくらでも起こり得ることでしょう。邪魔が取り除かれることで、思考そのものが動き出すのです。
(ついでですので言っておきますが、「どんぐり」とやらの糸山とやらいう人が、このような言葉とイメージの関係とか、読みのレベルを獲得することで「邪魔を取り除く」ことに言及しえていないならば、「視考力」も糞もないのです。文章が読みとれ、抽象すべきものと捨象すべきものがわからなければ、「視考力」はその初動を得られないからです。)

 素読舎で英語の練習をしていたら、他の科目が伸びたというような現象の鍵もこのあたりにあると考えています。

 ある難しい漢字について、「私はこの漢字は読みは知らないけど、どういうことなのかはわかる」という場合があります。それについては、そういう場合があっても構わないというくらいな位置づけが正しい。もしあらゆる漢字が全部「読みは知らないけどわかる」ものであった場合、その人の日本語能力というものは偏ったものになります。例えば、この掲示板に何か書こうとしても、漢字変換ができないというような具合にです。

 漢字変換というような例を出しましたので、これで考えてみれば、漢字変換ができない場合に、「邪魔を取り除く」には、その漢字の読みがわかるようにする。音に応じてひらがなが書けるようにするというだけのことです。

 漢字変換などという局所的なことではなく、広く日本人の子供から「邪魔を取り除く」作用があるものという観点から見れば、もっとも汎用性があるのは、子供にとって難度を含む文を「すらすら読めるようにする」という練習です。

 例えば、学校の音読というものがあります。これは「すらすら読めるようにする」を実際に実現しているかどうかから考えると、実現しているとは言えません。宿題で何回読んだかなどを問題にして、自己申告させ済ませているだけで、「すらすら読めるようにする」まで、子供の「繰り返しにつきあう」ことはしません。何十人もの子供を相手にそんなことができるわけがないというのが言い訳であり、実際にもそれは無理です。

 私がレッスンで、小学生に日本語の文を読ませてみても、学校が子供に必要なことをやらせていないことがはっきりわかります。それが多くの割合を占めます。
 語彙が抽象的になる場合、日本語の(読み書き用の)シンタックスが身体化されていないと読み書きの障害になっていきます。読み書き用のシンタックスの身体化を学校はまともにやっていないのです。これは、生徒の個々に対して、「繰り返しそのものにつきあう」ことでしか養うことができません。「身体化」そのものに自分で面白みを見つけることのできる子供は別ですが、近頃増えている「数学頭」の子供(すぐに近道を探し楽をしたがる頭)は、言葉の身体化を喜ばない傾向があります。日本の子供の学力低下の真の原因は、社会のいろんな場面がコンピュータ化され、システム化され、その反映として子供の頭の動きが「数学頭=コンピュータ頭」になっている傾向のせいではないかと私は疑っています。学校の授業時間数を増やすかどうかなど、本当は何の関係もないことだろうと。

 素読舎のレッスンで、「現在進行形:am(are, is)+ 現在分詞」などという日本語を小学生が読まされた場合、こんなものにイメージを持つことは「最初は」できません。できなくて当たり前であり、それでいいのです。
 しかし、
 I am playing baseball.
 などという具体的な文を「すらすら読める」ようにする練習と、「現在進行形:am(are, is)+ 現在分詞」を「すらすら読める」ようにする練習は、小学生でもできます。最初は口うつしで言えばいいのですから、小学校の低学年にでもできます。(できますが、「スカイプでレッスン」の性質上、回線の品質確保などの問題が生じた時に子供が対処できないのでやりたくないだけです。)そのことによって、子供が自分でイメージをつかもうとするときの「邪魔を取り除く」わけです。
 I am playing baseball.
 には、「am(are, is)+ 現在分詞」という約束事が含まれているだけでなく、他にいくつもの文法事項が含まれています。
 am は主語が I の場合に限るとか、playing は play という原形に ing がついたものだとか、動詞には原形というものがあるとか、どれが主語であり、どれが動詞であり、どれが目的語であるとか。こんな簡単な文にも多数の文法事項が含まれています。
 「すらすら読めるようにする」というのは、そのそれぞれの文法事項についての文を「すらすら読めるようにする」ということです。
 そうすることで、子供が自分でわかろうとする時のために「邪魔を取り除いておく」のです。いつ本気でわかろうとするのかは子供にまかされています。

 日本語の文についても、英語の文についても、「すらすら読めるようにする」という同じ練習が行われます。
 その場合に、英語の音として後で困るようなものを排除するということも伴います。これもまた「邪魔を取り除く」です。(これがやれる塾はほとんどありません。)

 素読舎のレッスンを始めたばかりの子供はひたすら混乱します。何のことやらちっともわからないという状態になります。それでいいのです。この状態を持続していないと、一挙にみんなわかってくるということが起こらないのです。

 抽象レベルを備えたものを理解する場合には、そういうところを必ず通ります。素読舎を使わない場合(多くの場合)、それをやみくもにやるだけです。そして多くの子供が途中で放棄するということが起こります。それが実態です。

 以上書いたところは、果たして日本語の練習なのでしょうか、英語の練習なのでしょうか。日本語の練習でもあり、英語の練習でもあると言うのがより正確なところなのではないでしょうか。
 それよりもむしろ、音とイメージとを連関させるための練習なのだというべきではないでしょうか。しかし、そう言ってしまえば、これは、日本語の練習でもなければ、英語の練習でもないとも言えます。あくまでも、音とイメージの練習なのだと。
 それがもっとも正確な言い方だと思います。

 音とイメージの連関というように、日本語やら英語やらの個別言語のレベルを突き抜けたレベルで考え、そこから方法を組み立てているのは、私が見る限りでは素読舎しかありません。
 英語の練習でも、この「突き抜けた」レベルで行うしかないのです。個別言語にとらわれたあらゆる方法は、駄目だと考えています。
 これは、「やみくもにやって効果をあげる人」の中に起こっていることを言語化しただけのものなのです。しかし、それが言語化されなければ、方法というものにはなりません。言語化される前のものは、もうこの娑婆にいくらでも転がっています。

 素読舎の方法は、時に娑婆的には「とんでもない効果」をもたらすことがあります。
 高校1年からこの方法で始めた生徒が、長野南高校から名古屋大学に合格したということがありました。長野南高校がどういう高校であるかは、長野県の長野市に近いあたりの人にしかイメージできないでしょうが、この生徒が名古屋大学に受かったと友達に言ったとき、「それなに?」という反応しかなかったそうです。ほとんどの生徒が、美容師関係とか調理師関係とかの各種学校に進むので、長野南高校の生徒には、名古屋大学などというのはこの世に「ないも同然」のしろものだったということです。

 通常の進学指導などでこういうことは起こりません。
 日本語を突き抜け、英語を突き抜け、音とイメージの相互作用という抽象のレベルで激しく混乱するということを避けずに練習を続けたから、このことが起こったのです。

 誰もがそんなことをしなければならないのか。
 そんなことはありません。
 しかし、学校はいずれそれを要求してきます。学校は「邪魔を取り除く」ということをやらずに、抽象レベルだけは要求してきます。「落ちこぼれ」というものは、「学校が作り出しているもの」です。ほとんど泥棒行為に等しいものです。

 「邪魔を取り除く」ということをやらないのであれば、学校が本当に作っているのは「落ちこぼれ」だけです。本当の実力をつけた生徒は、学校なんかアテにしなかった人たちだと私は思っています。

 素読舎は学校という「よからぬもの」にどう対処すべきかを提唱しているのだと考えてもらってもかまいません。

 単なる「やみくも」だけやって、中途半端に抽象レベルに「さらわれ」、現実対応能力を失ったような大学出がうじゃうじゃいます。学校(制度)に「してやられた」人達なのです。中間テストや期末テストに「飼われた」人たちです。
 言われたことしかできないとか、自分で仕事を作ることができないとか、同じことをするのでも、「自分の仕事にする」ことができないとか。

 大人が子供に対してしてやれることは、「邪魔を取り除く」ということだけです。
 それをしっかりやらないで、学校制度の中で点をとることなんかに本気になるから、現実対応能力のない大学出なんかの一丁あがりになるのだと考えています。

 私はひそかに疑っています。現実対応能力がない人というのは、言葉とイメージが現実に対応できるまでに一致していない人なのではないか。テストだの受験だのに「さらわれて」、言葉とイメージの一致を「奪われた」人なのではないか。つまり、文学がわからない人なのではないか。
 「正解する」ことに価値を見る人(点に価値を見る人)とは、「仮にそうするだけのこと」であることがわからなくなった人のことではないか。制度がやらせるものに真実性はないということが見えなくなった人のことではないか。「正解」とは制度的なトリックだということが見えなくなった人のことではないか。「正解」が置かれるのは、世界から切れた舞台の上であるにすぎないことがわからなくなっているのではないか。そんな知識は、この世に生きるときの「媒介項の一つ」にすぎないということが見えなくなっているのではないか。

 言葉に制度が与えるイメージしか対応させることができないこと。これは、作ることでも産出することでもない。そのことに一生懸命になって、自分がイメージをつかみ、世界を新しくすることを「奪われた」人達。

 語学論は、大学出のぼんくらどもを照らし出すこともできるのだと書いていて気づいた。キーワードは「イメージ」だろう。